ガリア戦記からみるローマ軍
ガリア戦記とは
ガリア戦記は、ユリウス・カエサルが紀元前58年から紀元前51年にかけておこなった、ガリア遠征を記した書物で古代ローマ時代におけるゲルマン人の様子を知る重要な資料です。
全八巻あり、そのうち第七巻まではカエサルが筆者であるとされています。
ユリウス・カエサルは古代ローマの政治家で、第一回三頭政治のメンバーです。
そしてガリア周辺の属州総督に就任し、ガリアを属州化しました。このときのエピソードがガリア戦記としてまとめられました。
内戦を経た後に終身独裁官に就任し、事実上の皇帝となります。
後に暗殺されることになるのですが、それをモデルにしたシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の中の『ブルートゥス、お前もか』というセリフはとても有名です。
そんな一時はローマの支配者になったカエサルが、いかにしてガリアを征服したのかを見れば、自ずとローマの軍事力や戦術が見えてくると思います。
それでは具体的な戦いをいくつかピックアップして見ていきましょう。
ヘルウェティー族との戦争
まず初めに紹介するのは、カエサルのガリア遠征の中でも最初の大規模な戦争である、ヘルウェティー族との戦争です。このヘルウェティー族という部族は現在のスイス周辺を拠点にしていました。元々はこの部族で一番裕福であった、オルゲトリクスという人物に率いられていました。オルゲトリクスは、ヘルウェティー族の規模を考えると今の土地では足りないと判断し、移動を決意しました。しかしそんな中でオルゲトリクスは死んでしまいます。それでもヘルウェティー族の移動の決意は変わりませんでした。移動するにはセークァニー族の領地を通るか、当時ローマ帝国に平定されたばかりであった、アロブロゲース族の領地を通るかの二択でした。アロブロゲース族の領地を通過するルートで出発することになりましたが、それを知ったカエサルは急いで外ガリアに向かい、ゲナウァに着きました。ヘルウェティー族は使者を送り、他に道がないので、損害をかけないから通行させてほしいと伝えましたが、カエサルはかつてコンスルのカッシウスが殺され、ヘルウェティー族にローマ軍が敗北したたことを覚えていたため、絶対に通させないと考えましたが、自分達の戦力を整える時間も欲しかったため数日考えると返事をしました。その間に防壁と堀を19哩にわたって築きました。こうしてヘルウェティー族はこの道を通過するのが不可能になり、セークァニー族の領地を通ることにしました。それをカエサルが知ると、ヘルウェティー族のような好戦的でローマに敵対している民族が豊かな土地に移るとまずいと考え、急いで向かいました。ヘルウェティー族が川を二十日かけて渡ったのに対し、ローマ軍は一日で渡ったのを見たヘルウェティー族は、ローマとの和平を求めてカエサルに使者を送りました。しかし、ヘルウェティー族は人質を出したくなかったため、交渉は決裂しました。
ローマ軍は偵察によってヘルウェティー族の状況を把握しており、彼らが移動をするたびに距離を保った上で拠点を移動していきました。そんな中、ローマ軍は穀物不足から近くの豊かな町に供給してもらおうと、ヘルウェティー族とは別の道を進み始めました。それを見たヘルウェティー族はローマ軍が怖気付いたと考え、予定していた道を外れて、ローマ軍を追尾し、攻撃を開始しました。カエサルはこれを受けて近くの丘に部隊を引き上げ、高地に布陣を敷きました。ローマ軍は高地から槍を投げることで敵の方陣を崩し、剣で切り込んでいきました。その後ボイー族とトゥリンギ族も参戦し、二面で交戦をすることとなりました。長時間の交戦の末、ヘルウェティー族は後退して行ったが、カエサルはヘルウェティー族の行く先で穀物を供給させなくするためにリンゴネース族に使者と手紙を送りました。その結果何もかもが不足したヘルウェティー族はカエサルに降伏の使者を送りました。
エブロネース族の乱
次は逆にローマ軍が大敗した戦いも見てみましょう。エブロネース族の乱は、カエサルが直接指示をしたわけではないですが、カエサルにとってガリア遠征を始めてから最大規模の損失になりました。カエサルはブリタニア遠征を終えて、穀物不足に陥ることを避けるために、軍を分割し、ガリア各地へ冬営させることにしました。そんな中、冬営地に到着してから約15日後、エブロネス族がサビヌースとコッタの指揮していた冬営地を突然襲ったのですが、サビヌースらはこれをすぐに退けました。エブロネス族は協議をしたいと申し出て、その中で、ガリア人とゲルマン人がローマ軍に一斉蜂起を企てていること、自分達はカエサルに恩があるのでなるべく衝突は避けたかったが、力がないため逆らえず仕方なく襲撃したこと、ガリア人とゲルマン人の攻撃に備えて他の冬営地と合流するべきでそのためならエブロネス族の領地を通行しても構わないことを伝えました。サビヌースとコッタはこの提言を持ち帰り、会議を行いました。サビヌースは早く他の軍と合流することを主張し、コッタはカエサルの指示なしでは動くべきではないと主張しました。結局他の兵士の、内部分裂が最悪のケースだという意見を踏まえ、サビヌースの意見が通ることになりました。こうしてローマ軍は夜明けと共に出発しました。しかし、エブロネース族は一晩中騒がしかったことからローマ軍の出発を察知し、森の中に伏兵を二隊配置しました。そしてローマ軍が谷底に差し掛かったとき、エブロネース族は奇襲を仕掛けました。これに慌てふためいたローマ軍は荷物を捨てて円陣を作りました。しかし応戦も虚しく、サビヌースが殺され、コッタも殺され、ローマ軍の敗北は決定的になりました。この戦いでカエサルは一軍隊を丸々失うことになりました。
アレシアの戦い
最後に紹介するのは第七巻で描かれる、ガリア遠征最大の戦い、「アレシアの戦い」です。
アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスが主導で、ガリア全体を巻き込んだ大規模な戦争です。アレシアという場所は現在のフランス、アリーズ=サント=レーヌであるとされており(諸説あり)、そこには Muséo Parc Alésiaというアレシアの戦いの戦場を復元した博物館も存在しています。
とあるように、アレシアの町はカエサルにとって攻略しにくい地形でした。
そこでカエサルは消耗戦を選択しました。具体的には、全長18キロメートルにも及ぶ土塁を築いたり、何列もの壕を掘ったりし、ガリア軍が食料不足に陥るのを待ちました。ウェルキンゲトリクスは夜襲を仕掛けて包囲網の突破を試みましたが、失敗に終わるなどしているうちにどんどん消耗していきました。そこでガリア軍は地理的要因から北西から攻めるのが良いと判断し、一気に攻め込むことを決意しました。また、ローマ軍の注意を引きつけるために南西からも攻撃を行い、一時はガリア軍が優勢で包囲線も突破されかけていまいました。しかしカエサルは、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスとガイウス・ファビウスにそれぞれ騎兵を率いさせて先に出撃させたのち、自らが兵を率いて戦場に赴きました。ガリア軍が指揮を取るカエサルの姿に惹きつけられている間に、その背後から先に出撃させていた騎兵がガリア軍を背後から攻撃し壊滅に追い込みました。その後ウェルキンゲトリクスは降伏し、これによりローマは実質的にガリアを平定したことになりました。
まとめ
全体を通して見てみると、カエサルという人物が状況を見る力がずば抜けていることがわかります。戦争を始める前には、必ず偵察をし、その民族の情報や、地形、周囲の民族の関係など色々な要因を考慮した上で、戦略を立てていることがわかります。そしていざ戦争が始まると、適切なタイミングで適切なアクションをし、勝機を逃さないところが彼が歴史に名を深く刻んでいる所以でしょう。大敗を喫してしまったエブロネース族の乱は、逆に相手がローマ軍が分割しているという状況をよく理解し作戦を立てられていました。小手先だけの戦術よりも、相手を知るところから始めるということが何よりも重要なのがわかります。
参考文献
『ガリア戦記』、岩波文庫、カエサル著、近山金次訳