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小学校入学から高校卒業までの12年間、学校を休んだことはほとんどない。
大きな病気をしたのは小学校1年生の夏休みで、この時は一ヶ月ほど入院したが、夏休み期間中だったので通学に問題はなかった。
大きなケガをしなかったのもあるが、なにより体調が悪くても自宅で寝込んでいることができなかったのである。
私の実家は1階が店舗で洋品店を経営していた。その後部に住宅部分があるので、両親は常時家にいる状態である。だから風邪をひいて熱を出していても、時々父親が見に来ては説教をする。
「日頃から食べ物の好き嫌いが多いからだ」「寝相が悪いからお腹を出して寝ていたんだろう」「普段からしっかりしてないからだ」となにかにつけて悪く言う。そのうちに母親に対して「おまえの躾が悪いからだ」とガミガミ文句を言うのである。
もうこうなると家で寝ていることのほうが苦痛で、ゴホゴホと咳をしながらも無理矢理小学校に登校していた。旧友からは「広重くん、大丈夫?」と心配されたが「家にいるよりマシなんだ」となさけない顔をしていたように思う。
学校では給食時間が苦痛だった。1960年代はまだ脱脂粉乳の時代で、給食のミルクは臭いが強烈だった。友人も鼻をつまんで飲んでいた光景をよく覚えている。
給食を残すと午後の授業中も私の机の上には食器やおかずが置かれたままだった。食べるまでさらし者にする処遇だったが、授業が終わっても私は食べない。放課後になっても食器とおかずが置かれた机の前に私はひとりでずっと座っていた。やがて担任の先生が来てあきらめて「給食室に返しに行きなさい」という結末である。
クラス替えがあって新しい担任の先生になるたびに上記の対応がなされて、やがてあきらめて「広重くんの給食を誰か食べてあげなさい」という展開になっていた。
日直や当番は進んでやった記憶である。なにか役を与えてもらうことがうれしかった。小学校4年生の2学期はクラスの委員長にもなった。
学校全体では校庭でウサギの世話をする飼育係になりたかったが、これは人気があり抽選になってついに選出されなかった。スポーツが好きな同級生はプール係や体育係をやっていたが、私は本が好きだったし、そもそも応募が少なかった図書係になることができた。
図書係は早朝、昼休み、放課後の3部制になっていて、その時間に図書室に在籍して本の貸し出しや返却の手続きを行う仕事だった。
1時間目の授業が始まる前の早朝の担当はみんな嫌がったので、私は積極的に朝の当番をしていた。
まだ生徒が登校する前の学校に入れるのも楽しかったし、始業前に誰もいない図書室で好きなだけ本を読めるのもうれしかった。早朝に図書室を利用する生徒はほとんどいなかった。
トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズ、少年探偵団や怪人二十面相、シャーロック・ホームズの小説は全部この図書係だった時期に読んだ。
図書室は二階にあったから、やがて登校してくる小学生を上から眺めているのもちょっと優越感のある時間だった。
建物は木造の校舎で床はニス引きがされていた。本棚も窓も木造だった。
窓から朝日が入ってきてキラキラと輝くような図書室の光景は今でも覚えている。
(写真は本文とは無関係です)