YOASOBI「舞台に立って」の歌詞に秘められた、3つの小説からのメッセージ
YOASOBIは、小説を音楽にすることをコンセプトに、コンポーザーAyaseとボーカルikuraの2人で活動するユニットです。私にとって、YOASOBIの楽曲は未知の物語への扉を開くような、そんな存在でもあります。
YOASOBIの楽曲と原作小説の関係は、非常に興味深いテーマです。楽曲と小説の結びつきを、どのように分析できるのかという点も、同時に気になります。
今回は、NHKの2024年スポーツ中継&パリオリンピックソングとして7月26日にリリースされたYOASOBIの楽曲「舞台に立って」を題材に、インターテクスチュアリティとナラティブという2つの視点から、歌詞と原作小説の関係性を分析してみました。
「少年ジャンプ+」で活躍する漫画家、タイザン5 / 桐島由紀 / 春野昼下がスポーツをテーマに描いた作品をもとに、作家の江坂純が3篇の小説を執筆。「舞台に立って」はこれらの小説を原作にして制作されました。「はなれたふたり」はサッカー、「パラレルレーン」はパラ水泳、「終わらないデュース」はテニスと3種の競技が題材となっています。前作の「UNDEAD」では元になった2つの短編小説のテーマをそれぞれ歌詞の前半、後半に込めました。今回は3つの小説のメッセージをどのように歌詞に込めたでしょうか。
また「舞台に立って」は元になったこれらの小説、漫画、そしてアニメーションのOfficial Music Video、英語版のMusic Video、パリオリンピックでの激闘、そして視聴者自身の物語と多くの楽しみを与えてくれるタイアッププロジェクトになっています。
小説が掲載されたオフィシャルサイト
漫画が掲載された 少年ジャンプ+ サイト
YOASOBIのインタビューから
YOASOBIへのインタビュー記事では、
「楽曲『舞台に立って』は、パリ五輪のアスリートを応援するだけでなく、競技に挑むアスリートの心情や、それを見守る人々の思いも表現したいという、YOASOBIの葛藤から生まれました。最終的には、アスリートとミュージシャン、それぞれの「舞台」に立つ者としての共通点である、日々の葛藤や、そこから生まれる自信や情熱をテーマにすることで、多くの人の背中を押せるような楽曲を目指した」と語っています。
夏季オリンピックソングのなかで、「舞台に立って」は
「舞台に立って」はオリンピックという国や周囲からの期待に対する重さを背負わずに、舞台に立つ瞬間の自分自身と向き合った疾走感のある爽快な曲となっています。これはもとになった小説の特徴でもあり、小説を音楽にするYOASOBIの曲だからこそかもしれません。
「舞台に立って」の歌詞と小説の関係を見てみましょう。
インターテクスチュアリティからの分析
YOASOBIの楽曲「舞台に立って」と、その原作となった小説「はなれたふたり」「パラレルレーン」「終わらないデュース」の関係を、インターテクスチュアリティを用いて説明してみます。インターテクスチュアリティとは、あるテクスト(この場合、「舞台に立って」の歌詞)が、他のテクスト(3つの小説)との相互作用によって、新たな意味や解釈を生み出すという考え方です。
具体的には、以下の3つの観点から分析できます。
共通するモチーフ
3つの小説と「舞台に立って」の歌詞には、「夢と挫折」「努力と成長」「ライバルの存在」「周囲の人々の支え」といった共通のモチーフが確認できます。
例えば、「舞台に立って」の歌詞にある「無邪気に思い描いた未来の私の背中をひたすら追いかけた」という部分は、「はなれたふたり」の孝太郎とスバルが二人で国立競技場の舞台に立つことを夢見ていたことや、「パラレルレーン」の漣が事故前に水泳選手として世界を目指していたこと、「終わらないデュース」のイチがプロテニスプレーヤーとして活躍し、両親からの承認を求めていたことと共通しています。
「かさぶたばっかの毎日も今に繋がっていると思えた」、「何度も何度も流した涙の分 立ち上がってきた」、「今までのどの瞬間も無駄じゃなかったと思えた」という歌詞は、3つの小説それぞれで描かれている努力と成長を表しています。
また、「隣で戦い続ける君がいたから」という歌詞は、3つの小説全てにおいて、主人公たちがライバルや周囲の人々に支えられながら、困難を乗り越えていく姿と重なります。
登場人物たちの心情の反映
歌詞は、3つの小説の登場人物たちの心情を反映しており、彼らの葛藤や成長をより際立たせています。
例えば、「勝ち負けがはっきりある世界は 好きだけじゃ生き残れない いつも結果と成果 遊びじゃない そんなこと分かってる でもね 好きだから諦めなかった」という歌詞は、「はなれたふたり」のスバルと実力差が開いても舞台を変えてサッカーを続けた幸太郎の心情、「パラレルレーン」で事故にあってもパラ水泳で再び挑戦する焦りを感じることができた漣の心情、「終わらないデュース」でテニスに勝つことだけに執着し、周囲から孤立していっても、それでもテニスが好きだという気持ちと葛藤するイチの心情と共鳴しています。
また、「他人は好き勝手ばっかり言うしもう何のために戦ってんだろって分かんなくなって」という歌詞は
「はなれたふたり」: 主人公の孝太郎は、幼馴染でライバルのスバルと比べて自分の実力が足りないことに悩み、周囲からの期待もプレッシャーに感じて「もう何のために戦ってんだろって分かんなくなって」しまいます。
「パラレルレーン」: 事故で右足を失った主人公の漣は、「かわいそうな障害者」として見られることへの恐怖から、周囲に心を開けずにいました。 「障害者の話だろ」とクラスメイトに言われたり、同情からパラ水泳を勧められることに傷つき、「なんで自分がこうなったのかも、もうわからなかった」と目標を見失っていました。
「終わらないデュース」: テニスの試合で、ライバルのメルルと延々とデュースを続けるイチは、次第に周囲の目がメルルばかりに向けられるようになり、焦りを感じます。メルルの人気に嫉妬し、メディア露出を増やしたりしますが、「私、何してるんだろう」と自問自答するようになります。
新たな解釈の創出
歌詞は、3つの小説の要素を織り交ぜることで、より普遍的なメッセージを発信しています。
3つの小説は、歌詞のとおり主人公たちがそれぞれ異なる舞台に立って、未来の自分の姿を捉えたところで終わっています。
このように、「舞台に立って」は、インターテクスチュアリティによって、原作となった3つの小説のモチーフや登場人物たちの心情を反映しながらも、独自の解釈を加えることで、新たな意味を創造しています。
ナラティブからの分析
ナラティブ理論は、人がどのように物語を理解し、そこから意味を見出すのか、という点に着目する理論です。この楽曲と小説群の関係においては、歌詞が3つの異なる物語を一つの共通のテーマに収束させることで、新たな「メタ物語」を生成していると解釈できます。
具体的には、以下の3つの要素に注目できます。
語られる「場所」
3つの物語はそれぞれ異なる場所を舞台としていますが、「舞台に立って」の歌詞は、それらの場所を抽象化し、「待ちに待った舞台」という共通の場所に集約させています。「はなれたふたり」の国立競技場、「パラレルレーン」のプール、「終わらないデュース」のテニスコートは、歌詞の中では「舞台」として同一化され、それぞれの主人公が夢に向かって努力する姿を象徴的に示しています。 この歌詞における「舞台」は、物理的な場所ではなく、登場人物たちが自らの限界に挑戦し、成長を遂げるための象徴的な空間として描かれています。
登場人物たちの「経験」の共有
歌詞は、「かさぶたばっかの毎日」「不条理を前に立ち尽くす」「何度も何度も流した涙」といった具体的な経験を通して、登場人物たちの心情を描き出しています。 これらの描写は、特定の物語に限定されず、3つの物語全てにおける登場人物たちの経験と重なり合うことで、夢を追いかけることの苦悩や喜びを普遍的なものとして表現しています。
「君」の存在
歌詞に登場する「君」は、それぞれの物語における重要な登場人物を示唆しています。「はなれたふたり」の孝太郎にとっての「君」はスバルであり、「パラレルレーン」の漣にとっての「君」は鮫島伊吹、「終わらないデュース」のイチにとっての「君」はメルル・アンジェリカというように、それぞれの物語において主人公を支え、共に成長を促す存在として描かれています。 歌詞は、彼ら「君」の存在が、主人公たちが夢を諦めずに「舞台に立つ」ための原動力となっていることを示唆しています。
このように、「舞台に立って」の歌詞は、3つの小説の物語を断片的に引用するのではなく、ナラティブ理論に基づき、「場所」「経験」「人間関係」といった物語の構成要素を抽出、再構成することで、新たなメタ物語を生成しています。そして、そのメタ物語を通して、夢に向かって努力することの意味や、困難を乗り越えていく人間の強さといった普遍的なテーマを表現しているので、「舞台に立って」を聞く人々それぞれが自分の物語をそこに感じるようになっています。