高忠智、オオサカにて【サタスペ創作】
釈迦は、生まれたときに母親を亡くしたというけれど。
そういう意味合いでは、オオサカには釈迦候補がたくさんいる。なんとも不謹慎で、不純で、冒涜的な話ではあるけれど。
母への愛、母からの愛を求めて。それと同時に、それが失われる恐怖も抱えて。
高忠智もそのうちの一人だった。ただ、釈迦になるには生まれながらの才能が足りないので、彼は仏陀にもなれなかったし、転輪聖王にも勿論なれなかった。
「でも分からないよ」
そう囁いて、隣に眠る名も知らぬ女の鎖骨を指でなぞる。彼女の寝顔は安らかに、さながら死者のような静けさのうちに居る。その瞼が開くことは無く、忠智の頬に吐息がかかる。誰に語りかけるでもなく、されど何かに聞かせるように彼は呟く。
「そのうち誰かが悟りを拓きそうだなァ——」
多分それは僕じゃない。この魂(カルマ)は、なんとなく、上に立つ者の器ではないのは直感で知っている。
外の方で銃声が鳴った。それからもう一つ。「スコーピオンかな」と瞼を閉じて耳を澄ませる。音の大きさからして、こちらには多分影響ないだろう。目の前の女が、そっと瞼を開いた。
銃声で目を覚ましたのだろうが、少し震えている。忠智は愛おしげに見つめて、
「君、銃が苦手なのかい」
と聞くと、彼女は返事をせずに彼の薄い胸に顔を埋める。その頭を、彼は優しく撫でてやった。
忠智の父親は、中国ではそれなりに権力を持った将校だ。とは言っても、家は治安の悪いところにあり――建てた当初は悪くなかったらしいのだが、忠智が生まれたあたりから悪くなったらしく――銃声、爆撃は日常茶飯事だ。第二次世界大戦後、列強の一つの中国国内は、それなりに平和にはなっていた。だがその中で、拉致されてきた日本人労働者だとか、統治された側の人間が突如発狂することも多々あり、それに伝染して乱闘騒ぎが起きて、とにかく騒がしい。
忠智の父親はそれを鎮圧する仕事に追われていて、護身用にと息子に拳銃を持たせることもあった。それはすなわち、父親が自分に構ってくれないことを指していて、幼い頃の忠智は「銃を懐に持つ=孤独」と認識した。故に、大きくなっても拳銃を懐に隠すことは、無意識のうちに避けるようになっている。むしろ表に出していた方が、誰かが必ずとんでくるので(要件は様々だが)、彼の幼い孤独感を解消する手助けになっていた。
母親は娼婦だったという。
忠智は、自分の顔を鏡で見る度に、父親にはない切長の目を見ては、母親の面影を夢想した。日本人だったという彼女は、中国に占領された和歌山市の出身だったらしく、そこから連れてこられたかして、父と出会った。将校の妻として、多少裕福な生活を送ろうかといううちに、流行り病に罹って死んだらしい。可哀想な人だ、と忠智は思う。
物心ついた頃には、忠智は母親を探すようになっていた。勿論、母その人は今生には居ない。代わりに、彼女を構成していたであろう言葉、文化——そういったものを蒐集するのに夢中になった。それらが、彼の心の穴を埋めていた。
義務教育を終えた彼は、日本で学問を納めたいと言い出した。父親は一人息子を溺愛していたので、それを二つ返事で承諾する。
「でも、統治している和歌山市(ホウゲーシャン)にしなさい」
それを聞いたか聞かないでか、彼は生活金を貰うや否や、オオサカの地に降り立った。
「——オオサカの方が楽しそうだなァ」
確かに、和歌山市には行ってみた。中国人も多い。軍備も少しではあるが拡充している。穏やかには暮らせそうだ。しかし、噂を聞いて足を運んだオオサカはどうだ。
混沌!
忠智が日本を知る蒐集の中で、特に興味を惹いたのは二つ。観音菩薩の仏画と、テレビドラマである。
美術に関して、オオサカは出回っている品自体は、どれもこれも偽物ばかりである。しかし、単純な母数が多いのは、さすが交易の拠点である。パチモンの中にも、光るものは少なからず存在するもので、忠智を興奮させるような作品との出会いもある。後者のテレビドラマは、無法地帯と化している地域のレンタルビデオ店などでは、種類が豊富で安価ときた。
混沌サイコー!
覚えたてのオオサカベンで、忠智は空に向かって叫んだ。
「でも、和歌山市はお母さんの故郷なんでしょ」
薄明るい朝。昨晩の女は化粧台に向かって話している。忠智はドリップコーヒーを飲みながら、裸のまま毛布にくるまった。
「行ったよ」
「でも一瞬じゃない」
母を構成していた要素を蒐集する旅。そう銘打って始めた家出の末路。
「和歌山市には、母はいなかったんだ」
それはどうしようもない事実であり。母を知らない忠智には「自分が母だと思うものを集めて山にして母にすること」で出来た何かを、母と呼ぶしか出来ない訳であり。
つまり、忠智が母だと思っているものは、彼女の故郷にはなく、オオサカにあった。
「そういうこと」
女は怪訝そうな顔をして、彼の方に向き直る。
「それが、そんな爛れた生活なの」
そう言って煙草に火をつけた。「男も女も一夜限り取っ替え引っ替え、人たらしで一人ぼっちじゃ生きられない可哀想な美大生」
忠智は誇らしげに微笑む。
「貴方だって大したものじゃない」
言葉の語尾が上がり、女は貶されているのか誉められているのか、判断できずに煙を吐いて首を傾げた。返事をする代わりに、時計を指した。
「そろそろ出勤じゃないの」
それを見た忠智は、急ぐでもなくゆっくりと毛布を出て、そばに落ちている自分の服を着る。それは白と黒を基調としたメイド服であり、オオサカで一昔前に一世を風靡した「メイド喫茶」の衣装である。きっちりと黒いストッキングまで身につけると、女の化粧鏡へずいと顔を向け、頬についていた睫毛を払う。それから、女の方に向き直った。
「僕かわいいかな」
「馬鹿じゃないの」
忠智は悪戯っぽく微笑むと、その場を後にした。