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作為

制作中に得た気づきや感じたことは、記録する。そうすることで後で見返す事も出来るし、何よりその時思いついた事などすぐ忘れてしまうので、しっかり言葉にして残しておくことは大事だ。これは大学時代から変わらない価値観であるし、生徒に対しても行っている。授業の後にふりかえりを記入してもらう事によって。

ただクロッキーに記入して残すのもあるが、こうしてnoteに残すっていうのも案外いいね。という事で、個展が1ヶ月後に迫っているので最近感じてる事をつらつら。(と言っても学生時代から本質は全く変わってなく、成長の少なさにたまに絶望する)

僕の制作の大きなテーマは「素材との関わり方」だ。素材ってのは制作の支持体の事で、僕の場合は十中八九「木」な訳だが、「石」や「粘土」「金属」なんかも登場し得る。

関わり方とは何かという事だが、いわゆる彫刻ってのは作家が頭にイメージしたものを素材によって具現化するものだ。言い方悪いかもだけど作家と素材のパワーバランスは作家:素材=10:0である。

僕はこのパワーバランスを5:5にしたい。(可能か不可能かは別にして。)そういう素材との関わり方をしたいのだ。

具体的に言うと木で人物像を彫る際に、像の腕部分が割れそうになったとする。そうすると作家は割れないように工夫したり、割れを避けるように形を変えたり、割れた時の修復について考えたりする。それは作者側の作為だ。

僕はこういう素材-木の割れとか節とか杢とかを逆に利用したいのだ。虫食いなんかあれば、どうやって形に落とし込もうか考える。木からの反発と呼んでいるが、その反発を無作為に形に落とし込み、作品化するのが理想だ。そのため、ある程度頭の中に完成のイメージはあるものの、完成像は彫りながら、木からの反発を受けながら見えてくる。アイデアスケッチが完成のための台本だとしたら、台本はある程度で、アドリブ全開でつくっているのだ。僕の作為と木からの反発を5:5にするのが目標。

だからどうした?という話だが、木以外の人間関係もそうありたいと思うのは人間の性ではないか。

家族に対して、友人に対して、恋人に対して。相手の気持ちを想像せず一方的に自分の価値観押し付けるのはあまりにも良く無い。相手の気持ちを思いやれる人になりたいのだ。この制作のスタンスを繰り返す事で理想の人物像に近づけると思う。

これは生徒との関わりも同じだ。教員になってから身染みて感じるのだ。教員は生徒に対して偉くなりがちだ。パワーバランスでいったら10:0だ。まだまだ難しいだろうけど、理想は5:5じゃないか。生徒からの反発を咎めずに傾聴する、そうすることでその子の個性が伸びる可能性があるんじゃないか。

自分が木に対して実践している「関わり」を、生徒ともしたいのだ。それが、教員であり作家である僕の最終目標であると思う。そのためにはこれからも仕事と制作の往還を続ける。確認するために展示をする。個展は確認作業だ。


…という前提(前提長ッ)をもとに最近の話をすると、割と自分の中の作為が強く出てきてしまっているね。「彫りたい形」が結構あるのだ。制作のペースが落ちたから欲が出てきているのかもしれない。

そうするとどうしても素直で見栄えの良い木を選んでしまう。割れずらかったり、節が無かったり、クセの少ない木。学級でいうなら中の上くらいの成績で、問題も起こさず人間関係も良好な生徒…といったところか…

彫って完成した作品をみると、うーん、いじくり回したなぁという感じ。材の個性が薄い分、僕の作為が強い。

そうすると次は、クセが強い材が彫りたくなる。学級でいうなら生活指導にビシバシ引っかかる系、教育相談に挙がるような不安や悩みを抱えている系だろうか…(不謹慎な例えだという自覚はある)

そういった材を求めて僕の知っている最も優秀な材木屋へ赴いた。そして購入したのが画像に載せてあるサボテンである。

サボテンって彫れるんだ…自分が持っているどの材木図鑑にも載ってなかった。穴ボコが空いているので、彫りには不向きだろう。自生していた頃はおそらくこの穴ボコ部分から棘が出ていたんだろうね。この穴ボコを利用した形を、模索中だ。

うーん、やっぱり面白い。この穴ボコはコンプレックスではない、長所だぞと。サボテンに教えてあげるようだ。ある程度完成像はあるけど、穴ボコに合わせてカーブを調整したりしないといけないから上手くいかない事があり、それが面白い。

こういう材を求めて、今度は学校の隣の寺でも散歩してみるか…。

どうだ?こういう営みは3Dプリンターには出来ないだろう?(あくまで張り合っていたい人間様である。)

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