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透明な壁 [短編小説]

 真夜中の静寂を破るように、アラームが鳴った。時刻は午前2時。亮介はいつものように眠りから目覚め、慣れた手つきでベッドサイドのスマホを手に取った。彼が夜中に起きるのは、もう習慣になっていた。夜更かしではない。彼は、毎晩2時に目覚めるよう体が設定されていた。

 亮介は寝室の窓に近づき、外を見つめた。ビルの谷間に挟まれたアパートの窓から見える景色は、いつもと変わらない。灰色の街並み、遠くに見える赤い航空灯、そして人気のない道路。だが、彼の目はその光景に焦点を合わせていなかった。彼が見ていたのは、自分自身だ。

 最近、彼は奇妙な感覚に取り憑かれていた。自分がまるで透明な壁の向こうにいるような気がしてならなかった。日常は淡々と進む。仕事もそれなりに充実しているし、友人もいる。家族とも適度に連絡を取っている。表面的には、亮介の人生は何一つ問題がないように見えた。

 それでも、何かが足りないと感じていた。自分の周りに見えない壁があり、その向こう側に本当に「生きている」人々がいるような気がしてならない。その壁は触れられないが、確かに存在していて、彼はそれを超えることができない。何かが隔たれている。その「何か」が何なのか、彼にはわからなかった。

 「自分が本当に何を感じているのか、よく分からない」

 彼は、数週間前に友人にそう漏らしたが、友人は「そんなこと、誰だってそうだよ」と軽く返してきた。亮介もそのときは「そうだよな」と笑って話を流したが、その感覚は一向に消えることはなかった。

 朝が来て、亮介はいつものように会社に向かう。オフィスは大企業の一角にあり、社員たちは忙しそうにキーボードを叩き、電話を取り次いでいる。誰もが何かに急いでいるようで、亮介はその流れに乗っている。しかし、ふと自分だけが違う時間に存在しているような、奇妙な疎外感を覚える。

 昼休み、亮介はふらりと外に出た。ビル街を歩きながら、カフェに立ち寄りコーヒーを買う。ふと、ガラスに映る自分を見つめた。そこに立っているのは自分なのに、どこか他人のように感じる。

 「このままでいいのか?」

 頭の中に、またいつもの問いが浮かんだ。この問いに亮介はずっと答えられずにいた。彼はその瞬間、思い切って会社を休むことにした。上司に体調不良のメールを送り、そのまま電車に乗った。どこへ向かうかは決めていなかった。ただ、今ここから離れたかった。

 電車の窓から流れる景色を見ながら、亮介は自分の人生を振り返った。大学を出て、就職して、数年間の仕事に追われる日々。そして、今ここにいる。思い返してみると、彼は誰かに期待されるままに動いてきたような気がした。自分が何を望んでいるのか、何をしたいのか、そんなことを深く考える暇もなく、ただ流されるままだった。

 電車はやがて海辺の小さな駅に着いた。亮介は降りて、波打ち際まで歩いた。海の向こうには何もない。ただ、無限に続く水平線が広がっているだけだ。彼はその場所でしばらく立ち尽くしていた。

 「もし、この壁が本当にあるなら、どうやって壊すんだろう」

 亮介は静かにそう呟いた。波が足元に寄せては返す。その音は穏やかで、無言の答えを彼に返しているようだった。

 「もしかしたら、壁なんて存在しないのかもしれない。ただ、自分がそこにいることを怖がっていただけなのかも」

 亮介はそう考えた。自分を閉じ込めていたのは、自分自身だったのかもしれない。誰かに期待されること、誰かに認められることばかり気にして、彼自身が彼自身を見失っていたのだ。

 夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始めた。亮介は深く息を吸い込み、潮風の香りを胸いっぱいに感じた。透明な壁は、今もそこにあるかもしれない。けれど、それを破ることができるのもまた、自分自身なのだと気づいた。

 彼は少し微笑み、駅へと戻る足を進めた。

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