山科陵と藤原京の位置関係
東経135.807度上の三史跡の立地の起点である天智天皇終焉の地・山科から,野口王墓までの直線距離は約59kmあります。両地点間には標高100m超えの丘陵地も分布するので,観測地点を南へ順繰りに移動しながら同経度を結んでいく方法では,しだいに誤差が生じるように思えます。観測地点のそれぞれに微妙な傾斜があるうえ,緯度が変わると日の出・日の入りの時刻も異なってくるからです。そこで,観測地は最初から山科と野口周辺同緯度線上の数か所の候補地に絞り,伝馬を往復させるなどして繰り返し測量を行い,精度を絞っていったのではないかと,ひとまず考えてみました。
藤原京の中軸線の南方に野口王墓がつくられたという説明も見かけましたが,持統天皇のもとで藤原京に都が置かれたのは694年なので,山科陵と野口王墓を結ぶ直線を中軸線として,藤原京が造営されたということにならないでしょうか。しかし,藤原京の発掘調査について改めて調べてみると,「条坊の中軸線と,680年に発願され688年には堂塔が整っていたとみられる本薬師寺の中軸線が一致する」という記述がみつかりました。
藤原京の造営は天武天皇の時代から計画が進んでいたものであり,藤原京の立地は山科陵に直接由来することになります。"藤原京は持統天皇の事績"という頭があったので,これは意外な事実です。
壬申の乱の終結とともに大津宮をうち捨て,飛鳥浄御原宮へ遷都した天武天皇には,天智天皇を否定したかのイメージがありましたが,藤原京の中軸線を山科陵と同一経度に定めたことには,天智天皇への敬意しか感じられません。何しろ,天武天皇は天智天皇の4人の娘を次々に妻としており,濃厚な血縁で結ばれています(その一人がのちの持統天皇)。持統天皇は天武天皇の政策を引き継いだ天皇として説明されることが多いのですが,それとともに父である天智天皇が始めた律令国家の建設を完成させたい,という志も感じられます。
近畿では同緯度に重要史跡が並ぶ「太陽の道」説が唱えられることがありますが,同緯度地点を計測するより,同経度地点を求める方が技術的に難しいように思われます。「山科陵は藤原京の中軸線から東へ600m余りずれているので,経度の一致は偶然である」とする見解もありますが,複数回の測量を重ね合わせた結果として,藤原京側で微妙なずれが生じたと考えたほうがよいでしょう。
測量は地面に棒を垂直に立て,そこから延びる影の長さと方位を読み取るという方法で行われたのではないでしょうか。先述したように,天智天皇の時代には日時計がすでに用いられていました。地面に傾斜があると正確に影を落とさないので,水平器のようなものが必要となりますが,これは……水を注いだ2本の樋の上に板をのせたいかだのようなものを設置し,中の水面が樋と水平になるよう足下に土を盛る,といった技法を用いたのではないかと推測します。
山科陵と藤原京の距離はたいへん遠く,山科陵から若狭湾までの距離を上回ります。上図のように丘陵地がさえぎる区域もあるため,いったいどのように測量を完遂したのか,想像をかきたてられます。藤原京から先,野口王墓はもう目と鼻の先です。丘から藤原京の造営が進む平地を一望できたどころか,条坊の南端はすぐ目の前まで迫っていました。こうした測量の実態については天文学に強くないのでなかなか考察が進みませんが,同緯度・同経度に並ぶ重要史跡に関しては,また稿を改めて考えてみたいと思います。