御墓山古墳と大彦命
三重県伊賀市にある御墓山古墳は墳丘長188mの前方後円墳で、その規模は大和・河内以外の古墳の中では上位に位置します。類似した形式をもつ銚子山/佐紀陵山/五色塚/摩湯山/松岳山/膳所茶臼山/御墓山/浅間山古墳の中では最も築造時期の新しい古墳ですが、地元に伝えられるところによると8代孝元天皇の皇子の大彦命の墓とされます。大彦命は崇神天皇の派遣した四道将軍のうち、北陸に派遣された人物で、崇神天皇から見て叔父にあたります。
稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣の主である乎獲居の8代前の祖先・意富比垝(オホヒコ)が、まさにこの大彦命であるという説が濃厚です。この鉄剣銘文の発見以前は、「日本書紀」が記す大彦命は架空の人物とすら考えられていたのですから、地方の古墳にいかに重要な史料が眠っているか、その可能性を知らしめる大発見でした。
御墓山古墳の埋葬施設は未調査のため内部構造は不明です。蓋形埴輪(貴人の墓を表す、佐紀陵山・松岳山古墳からも出土)、家形埴輪、円筒埴輪が出土しており、このうち円筒埴輪は基底部直径が37cmと、古墳の規模にふさわしいサイズです。これら出土品の特色や造出しから築造時期は5世紀初め、古墳時代中期に足を踏み入れたころと推定されます。崇神天皇の叔父が被葬者とすればその没年は4世紀半ばとなり、築造時期の大幅なずれがネックとなります。
御墓山古墳は上野盆地北部を西流する柘植川南岸に突き出た、丘陵の裾に造営されました。柘植川に沿って走る大和街道は、壬申の乱のときに大海人皇子の軍勢が東進した経路にあたります。以前、伊勢から橿原へ向かうときにこの古墳のそばを通りかかったのではないかと思い、調べてみましたが、名張市の表示を見かけたので南方の原東海道の経路にあたる道路であったと思われます。伊賀は四方を山に囲まれた山間地ですが、大和と近江・伊勢との交通路が交わる結節点、要衝として早くから開けていたと考えられ、御墓山古墳はじめ三重県で墳丘長100mをこえる大規模古墳はすべてこの地域に分布しています。甥の彦坐王の墓とされる膳所茶臼山古墳との位置関係は下図のようになります。
大彦命は北陸へ遠征する途中、異母兄弟の武埴安彦命の乱を鎮圧した功績でも知られ、将軍の名にふさわしい勇猛な人物と考えられます。その子孫は伊賀国阿拝郡を本拠地とし、阿拝氏(のちに阿閉・阿倍・安倍などと表記は変化)を称するようになりました。阿拝氏のほか伊賀国6氏族が大彦命を祖神とし、伊賀では突出した規模の御墓山古墳に大彦命が葬られているという説は、家系上は妥当と思われます。
築造時期のずれから、大彦命ではなく後世の阿拝氏が被葬者であるとする考えもありますが、具体的な人名は伝わっていません。このほか、桜井茶臼山古墳(桜井市)や川柳将軍塚古墳(長野県)を大彦命の墓であるとする説、御墓山古墳を大彦命の娘の御間城姫の墓とする説もみられます。任地の面で有力視される川柳将軍塚古墳(墳丘長93m)は、長野盆地南部の千曲川を望む尾根に立つ前方後円墳です。地元の史書には「崇神天皇に北陸の統治を命じられた大彦命が当地で没し、将軍塚という墳墓に埋葬された」旨が記されており、江戸時代に農民により発掘されたときの石室、埴輪や銅鏡などの記録から、その築造時期は4世紀半ばから5世紀前半と幅をもって推測されています。築造時期は適合するが被葬者と埋葬地域の関連性が不明瞭な膳所茶臼山古墳とは逆に、この御墓山古墳は被葬者と埋葬地域の関連性は明瞭であるが築造時期が適合しません。どちらがやっかいな不整合かと言えば後者でしょう。