出石心大臣命と天之日矛

 饒速日命から見て三世ないし四世孫にあたる出石心大臣命と、その子、大矢口宿禰、大水口宿禰の兄弟については、具体的な事績が多く見えてきません。そこで関連神社を調べてみると、京丹後市に出石心大臣命を祭神とする伊豆志彌神社がみつかりました。この「伊豆志(いずし)」は、垂仁天皇三年に渡来した新羅国王の子、天之日矛の娘である伊豆志袁登売の名と重なり、「出石心」の読みと同一です。「伊豆志」は、但馬国出石郡出石郷(兵庫県豊岡市の出石地域)にあたり、天之日矛の根拠地とされた地域です。「播磨国風土記」には、天之日矛が播磨の葦原志挙乎命と領地争いをし、志爾嵩という山からそれぞれ3本の黒葛を投げたところ、天之日矛の黒葛は3本とも但馬国に落ちたため、この地に居を構えることとなったという伝説が記されています (國學院大學地名データベースより)。
 一方、「日本書紀」垂仁天皇紀は、「播磨国に渡来した天之日矛に対し、垂仁天皇は播磨国宍粟と淡路島出浅のいずれかを与えようとしたが、天之日矛はこれを断り、自ら諸国をめぐって意に叶う地を探したいと申し出た。そして淀川をさかのぼって近江国から若狭国へ移り、但馬国の出石に住み着いた」と、具体的な経緯を説明しています。内陸深い豊岡盆地に中谷貝塚が位置していることからも、原始・古代における円山川は川幅がかなり広かったと考えられ、周辺はほとんど「泥海」という状態でした。天之日矛は河口の津居山を切り開いて濁流を日本海に流し、豊岡盆地を中心とする陸地を造成し、但馬国の礎を築いたとされます(中世には出石地域は山名氏の根拠地となる)。盆地の南淵に位置する出石神社は娘の伊豆志袁登売を祭神とし、後には但馬国の一宮となりました。

 海部氏の奉仕した籠神社に納められている、饒速日命がもたらした十種の神宝の一部の沖津鏡、辺津鏡は、天之日矛が来日時に持参した八種の神宝の一部であるという説もあります。こうした異伝をもって語られる様から、天之日矛の存在は朝鮮半島からの渡来人集団を一つの始祖神として象徴した説話にすぎないと考える向きもあります。しかし、但馬国に居を構え多遅摩之俣尾の娘・前津見を娶り、以後、多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐-多遅摩比多訶-葛城高顙媛-神功皇后と6代下った子孫から応神天皇の皇統へとつながるという、具体的な系統が伝わっていることから、実在の個人と考えるべきでしょう。

 出石心大臣命と伊豆志袁登売の「いずし」の音には共通する由来があるのでしょうか、それとも単なる同音異義でしょうか。出石心大臣命は5代孝昭天皇に仕えた人物であり、11代垂仁天皇とは6代のずれがあります。これは神武元年を2世紀とするか3世紀と考えるかという紀年以前の、総体的なずれです。改めて調べてみると、伊豆志彌神社は垂仁天皇の時代、丹波道主命の妻だった川上摩須郎女~つまり日葉酢媛の母~が勧請した神社であり、出石心大臣命を祭神とすると同時に垂仁天皇の同時代人である大水口宿禰を御子神としています。出石心大臣命は孝昭天皇から但馬の支配を任され、この地に出石心の地名が残った、後にこの地に入った天之日矛が子の一人に、その地名を含めて名づけたという経緯が考えられます。では丹波道主命の妻と大水口宿禰には一体どのような関係性があったのかという、とても興味深い疑問が浮かびあがります。多遅摩氏は(どの代に枝分かれしたか不明ですが)物部氏の系統とされるので、天之日矛は物部氏の傍系と縁戚関係を築いたということになります。一方で川上摩須郎女は物部氏の宗家である出石心大臣命と大水口宿禰を祀った、これは天之日矛の勢力に対抗する政略であったという図式が一つ考えられます。
 話題を物部氏へ戻そうと思ったのですが、思いがけずまた丹波道主命へと回帰してきました。久美浜湾の奥には、日葉酢媛の入内を記念して川上摩須郎女の父が建てた熊野神社もあります。その南東には久美浜町海士が位置し、その地名から海部氏の拠点の一つであったと考えられます。古代の但馬は丹後と同一の文化圏を形成していたようです。

(地理院地図より作成)

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