邪馬台国の使節の名を石棺文字に当ててみる(1)
それでは外交使節の名前を見てみます。
難升米…「難」の字はかねてから左端の①の箇所がへんの部分に似ているという印象を受けていましたが,つくりが似つかないため,全く違う印象の異体字を探してみました。「升」の字は弥馬升の段で比定した②の箇所です。「米」はこの時代の人々の最大の関心事,最重要産物なので,どのように表記したか,人名の件とは別に非常に関心のあるところです。甲骨文字では1本の横棒の上下に縦線を3本ずつ引いた形,あるいは稲穂が垂れた形で表されました。
3本線,垂れた形という意味では②の箇所には米らしさも感じます。今回の石棺文字で特に大きな謎となっている曲線状に流れる2本の文字列ですが(緑線),これは「稲穂は実るほどこうべを垂れる」(豊穣の願い)を祝詞の文字列で表したものではないでしょうか。文字の集合をもって意味を象形しているとすれば,発想の豊かさがうかがえます。「垂れる」という形状を表すには石版がこの向き(または逆版)でなければならず,左右を上部と見る,あるいはc板側を上部とする見方は消えます。
都市牛利…左端の③の箇所は,へん・つくりとも「都」らしさを感じさせます。本来のつくりのおおざとは,「邑」の字が簡略化されたもので,「里」や「村」という意味をもちます。④の箇所には「市」の異体字もしくは甲骨文字の形状がうっすらと見えます。甲骨文字については,弥生時代初期に江南地方から九州へ移住した人々が,春秋・戦国時代末期の地方色の強い漢字を発想元として,九州独自の文字を発達させていったという仮定のもと,比較の可能性を残しておきたいと思います。「牛」は甲骨文字の典型例としてよく紹介されますが,正面から見た2本の角ののびた様子が⑤の箇所にうかがえます。「利」は異体字の「刃」の部分に可能性を感じて当ててみました。
なお魏から与えられた率善中郎将などの称号は,名前本体に付記すべき称号であるうえに,これ自体が名前以上に長い文字列であることから,ここに付記されている可能性は低いようにみえます。
「魏志倭人伝」の記述では,邪馬台国の風習は江南地方とよく似ているということですが,現代の日本語は言語の構造から見ると中国語よりはるかに朝鮮語に似ています。線文字の乱雑さを見ても,孤立語である中国語のように文字種が単一の碑文ではなく,助詞が細かい記号で記されているように思えます。中国の文字と朝鮮語の構造をあわせて日本独自の音を表現する言語が,このころすでに成立していたのではないでしょうか。
難升米は二度にわたって魏の皇帝に謁見した大使であること,江南地方に「難氏」(難=なん/だん)の石碑が存在することから,もともと中国南部からの渡来人であり両国の言語に精通していた人物と考えることもできます。となると氏は難,名は升米ということになり,「なしめ」という日本読みに漢字を当てただけの表記ではないということになります。他の人名についても,彌馬升と彌馬獲支には彌馬が共通していますから氏は彌馬でしょう。
九州から遠征した磐余彦尊が近畿を征服して大和政権の初代天皇となったという前提に基づくと,古代九州の言語が以後の日本語の原型となったと考えるのが自然です。しかし急速に渡来人が増加し,大陸の国々との協調/対立の中で立ち回らなければならなくなった古墳時代を通じて,発想豊かであるが揺らぎのある表記をそぎ落として,漢字のみの表記に統一されていったのではないでしょうか。
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