石舞台古墳を破壊した者 その1
石舞台が蘇我馬子の墓であるとする説は,隣接する島庄遺跡で7世紀前半の四角い池の跡が出土したことが根拠となっています。これが「日本書紀」における馬子の邸宅(嶋宮)の説明と合致することから,石舞台を含む周辺地域が馬子の勢力下にあったと推定されました。
文献上・考古学上の手がかりが残されていないできごとに対しては,一連の事件の流れの中で何らかの大義名分を得て実施されたのではないかという観点から考えてみます。乙巳の変には蝦夷・入鹿の独裁への反発のほか,蘇我氏宗家・分家の争いも背景にあり,同族内で冷遇されていた分家の蘇我倉山田石川麻呂,赤兄らが中大兄皇子に加担しました。入鹿の暗殺の合図となる朝鮮使節の上表文を,大汗をかきながら読み上げたのがこの石川麻呂で,乙巳の変の前後に3人の娘を中大兄皇子の妃に入れていました。蘇我馬子は石川麻呂にとっての祖父でもあるので,中大兄皇子が政変後ただちに馬子の墓を破壊することはなかったでしょう。
しかし乙巳の変からわずか4年後,石川麻呂は異母弟の蘇我日向から謀反の嫌疑をかけられ,これを信じた中大兄皇子の追討により妻ら30人近くが連座してともに自決しました。石川麻呂の死後にその潔白が証明されると,中大兄皇子は偽りの密告をした日向を筑紫へ追放しました。中大兄皇子が当初から,蘇我倉家を利用して蘇我宗家を滅ぼしたうえに,蘇我倉家をも弱体化させることを企図したかどうかわかりませんが,冷酷無比な措置であることは確かです。
このあたりの「ゴッドファーザー」のマイケルを彷彿とさせるたたみかけるような粛正を見ると,649年に日向を追放した直後に石舞台の破壊が実行されたと考えるのが,ドラマ的にはすんなり通る展開です。娘の一人,遠智娘は651年に中大兄皇子の皇子を産むとまもなく亡くなりました。ケイの実家がマフィアであったら,石川麻呂と同様の悲劇が描かれたかもしれません。こうした政争の具とされた女性の苦悩は史料には記録されず,もう一人の娘だった姪娘は661年に皇女を産みます(のちの元明天皇)。
乙巳の変後,中大兄皇子の推挙を得た軽皇子が即位して孝徳天皇となり難波宮へ遷都しますが,しだいに中大兄皇子との関係は悪化し,孝徳天皇は子である有間皇子を次の天皇として即位させようと考えました。すると,中大兄皇子は皇后や群臣らを引き連れ難波宮を離れ,飛鳥に戻ってしまいます。まもなく一人残された孝徳天皇は亡くなり,中大兄皇子の母である斉明天皇が即位しました。有間皇子は策謀を怖れ正気を失った風を装い政治から距離を置きますが,中大兄皇子の命を受けた蘇我赤兄から,「斉明天皇による祭祀施設と運河の建設は民衆を痛めつける失政ではないか」とクーデタを持ちかけられ,有間皇子が賛同の意思を示すと赤兄がこれを中大兄皇子に密告,658年皇子は謀反の疑いで処刑されました。これだけ無慈悲な謀殺を重ねれば,怨念を恐れて中大兄皇子が神仏にすがるような姿は想像できません。
古代の人々は呪いを極端に恐れ,怨霊を鎮めるために神社を建立することもしばしばありました。中大兄皇子は蘇我氏の祟りを恐れることなく古墳の破壊に及んだのか〜調べてみたところ,中大兄皇子と宗教を結びつける記述は多くありません。天智天皇を祀る近江神宮がありますが,これは昭和時代に創建された神社です。あとは在位中に大和から大津へ神社を勧請したぐらいでしょうか(日吉大社の西本宮)。6世紀末以来蘇我氏が続けてきた仏教振興策は,大化の改新でいったん途絶えたようです。かといって廃仏毀釈のような動きも見られません。宗教に対する関心が薄いという点からも,蘇我氏の墓を暴くことに躊躇しない冷徹な人物像が浮かびます。次回は,古墳の破壊も大規模な土木工事である,という観点から考えてみます。
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