炭化したポンペイの巻物 / 焼失した天皇記
万葉集の「三山の歌」で注目すべきは,中大兄皇子が神話中の愛憎の物語を把握していたことです。稗田阿礼がそらんじた祖先の物語と系譜を,天武天皇が記録させようと思いつき,数十年のちに実現した歴史書が「古事記」です。
かねてから,「記紀は律令制の完成に当たって,朝廷にとって都合よく創作された物語」と断じる向きがあり,司馬遼太郎なども「大戦中の国威発揚に利用された物語」と切り捨てています。こうした姿勢は安易すぎる,神話には史実が反映されていることを前提に,類推的に考察していかなければ始まらない,というのが私の立場です(ただし領土拡張政策を正当化する論拠としての皇国史観には与しません)。中大兄皇子が記紀編纂の半世紀前に神話の内容を把握していたことから,皇室間で連綿と語り継がれてきた伝承と「古事記」の内容は大差ないものと考えられます。
乙巳の変で蘇我蝦夷が自害した混乱のなか,聖徳太子が620年に編纂した「天皇記」「国記」のうち,「天皇記」は蝦夷が邸宅に火を放ったことにより焼失,「国記」は難を逃れて中大兄皇子に献上されたといわれます。発掘の進む甘樫丘の東麓遺跡では「天皇記」の発見も期待されますが,紙は土に埋もれるだけでも普通に分解されるので,火災となると原型を留めている可能性はないように思われます。
しかしここで吉報を目にしました。1世紀のベスビオ火山の噴火の被災地から,1000点を超える炭化したパピルスの巻物が発見され,AIを用いた解読が進んでいるとのことです。火災で炭化したことで有機物による分解が進まず,文字の保存につながったということではないかと思われます。炭化した「天皇記」の出土とその解読,となるとこれは,日本の古代史を揺るがす世紀の発見となるでしょう。
中大兄皇子の手にわたったとされる「国記」ですが,その内容を中大兄皇子が把握していたのは当然のことです。さらに天武天皇の時代の「帝紀」をはじめとする歴史書の編纂,そして稗田阿礼の誦習を経て結実したのが「古事記」です。一部豪族をおとしめる形での改竄が行われたとしても,骨格は変わらないでしょう。「記紀は建国の起源を古くするため引き延ばした紀年法を用いている,ゆえに神代の歴史は荒唐無稽である」と結論づけるのはあまりに短絡的です。
不幸にも無文字時代が長かった日本において,「誇張のある史料は読み解いてもしょうがない,まして口承などは」という思考停止の姿勢を続ければ,日本の古代史はいつまでたっても闇の中から姿を現しません。神代の歴史はじりじりと口承されてきたもので,各代の記憶力の優れた官人により誦習されてきたのみならず,聖徳太子の時代にはすでに書物化されていました。その内容は一部の豪族の描写を除いて,現存する記紀の内容から大きくは外れないはずです。天智天皇がすでにその内容を把握していたこと,その弟の天武天皇が改めて史書の編纂に取りかかったことから考えても,連続性が保たれています。
近年は地学上の発見で神代の史実が証明されたり,富雄丸山古墳で従来の常識を越える遺物が出土したり,注目すべき発見が続いています。今後もあっと驚く知らせがもたらされることを期待しましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?