松岳山古墳と多氏
松岳山古墳(柏原市)は、平城京と難波宮を結んだ行幸路、龍田古道沿いにあります。「万葉集」の和歌にも詠まれた風光明媚な山間の道で、その"古道めぐりマップ"を見ると、ぜひ一度踏破してみたいという意欲にかられます。松岳山古墳はマップに描かれた中では最も古い史跡で、官道が開かれる250年ほど前に築かれた前方後円墳です。下図中の古墳北側の山岳は生駒山地の南端にあたり、古道を東側へ抜けると斑鳩に到ります。大和川の北側に沿い、川を渡って南側へ移り、また北側へとうねるように行幸路が通っていました(うねるように変遷したのは流路のほうかもしれませんが)。
この陰影起伏図でも鮮やかに確認できる西側の前方後円墳は、古市古墳群です。そのすぐ東の道明寺(藤井寺市)には、4~5世紀にかけて皇族出身者が県主として派遣された志紀県がありました。道明寺から松岳山古墳までの直線距離は3kmほどです。松岳山古墳の築造時期は4世紀後半であり、被葬者としては垂仁天皇に派遣された志紀県の県主が一つの候補としてあげられます。律令制下で官道が整備される以前、朝廷の直轄する河内の諸県へ向かう交通路として、少なくとも大和川の舟運はすでに利用されていたものと思われます。
垂仁天皇のころの都は纏向にあり、河内・和泉の県主に任じられた五十瓊敷命を含む3人の皇族は、纏向から奈良盆地を西進し、大和川を下って任地へ向かったと想像されます。なお古市の巨大古墳群が出現するのは1世紀近く後のことなので、当然ながら存在を無視してかまいません。松岳山はふもとの志紀県と遠く広がる河内平野を一望できる丘陵で、大和川を舟で下ってくると最初に河内の眺望が開ける、大和と河内の国界的な位置にあり、垂仁天皇が皇族を派遣して朝廷の直轄とした3県の一つが、この開口部に置かれた意味も見えてきます。
なお、松岳山古墳と古市古墳群の間の丘陵には、33基もの古墳が群立する玉手山古墳群があります。この古墳群のほうが距離的に志紀県に近いのですが、その多くは築造時期が3世紀後半までさかのぼり、4世紀半ばには終息を迎えるということなので時期が合いません(ちなみに柏原市は「古墳の数が全国一多い市町村」とされていました〔柏原市埋蔵文化財発掘調査概報1985年度より〕。百舌鳥古墳群を擁し面積が6倍も大きい堺市よりも多いとは意外です。ただし1985年当時の順位で、市町村合併が進んだ現在の順位はわかりません)。
では志紀県の県主に任じられた皇族とはだれでしょう。先述の論文「河内における県の展開」によると、神武天皇の皇子である神八井耳命の子孫とされています。神八井耳命は2代綏靖天皇の同母兄で、その後裔の多氏は朝廷の中枢で活躍するとともに各地の国造や県主に任じられました。傍系では「古事記」の編者である太安万侶も輩出しています(以前"神武東征後、地元の民はどうなった? 見捨てられたのか"と疑問を発しましたが、神武天皇に九州の統治を任されたのがこの神八井耳命、という説があります。つまり弟に皇統を継がせ〔綏靖天皇〕、兄に日向を託したとすると実に説得力のある継承の形です)。
多氏宗家の本拠地である十市郡飫富郷は、纏向のすぐ西に位置し、垂仁朝とのつながりが考えられます。また、松岳山古墳で用いられた石材には、400mほど東の芝山で産出した安山岩が含まれていますが、芝山の石材は箸墓古墳にも使われており、纏向/松岳山、垂仁/多の2つの側面から両地域の結びつきが見えてきます。志紀県に近い立地と、佐紀陵山古墳・摩湯山古墳と同規格であることの2点から、志紀県主の多氏が被葬者である可能性を強く感じます。では多氏の誰なのかとなると具体的な人名は伝わっていませんが、神武天皇から半世紀あまり後、墓誌が1枚でも見つかれば一挙に家系が見えてくるような遠くない子孫です。
幸い、この松岳山古墳には具体的な発掘歴があります。後円部の石室は1878年に、廃仏毀釈で悪名高い堺県令の税所篤によって発掘され、石棺の内から管玉と石製品が、外から鏡、勾玉、刀剣片などが出土しています(所在不明)。1915年には瀧野政治郎が後円部の墳頂から石杵を採集し、近くの小学校に保管されました(所在不明)。さらに1955年の大阪府教育委員会の調査の際にも勾玉、鏡破片、刀剣、鉄鏃片などの武具、鉄鎌、鉄鍬などの農工具が採集されました。松岳山古墳の西側には20m四方ほどの小さな方墳(茶臼塚古墳)が隣接しており、同じ築造方法であることから陪塚と考えられます。松岳山古墳の被葬者は多数の鉄製武器が副葬されていたことから有力な首長、茶臼塚古墳の被葬者はそれを補佐する役割を担った人物、特に石製腕飾りなどの出土品から祭祀担当の女性と推測されます。
松岳山古墳の後円部頂上には石棺が露出しており、見学できるということなので、いつか古道めぐりが実現した暁には訪れたいと思っています。石棺の南北には大きな板状の立石が2枚直立し、それぞれの立石には小さな孔があけられています(有孔板石)。これは石室が構築された際に立てられたものと考えられ、その用途の解釈は定まっていません(写真は"柏原市HP>文化財課>柏原の古墳>松岳山古墳群>松岳山古墳"参照)。
よく似た有孔板石が佐紀陵山古墳にもみられるため、ここでも日葉酢媛・垂仁天皇との関連性が浮かび上がります。写真を見た第一の印象は、「まさに石碑」です。しかし、"さあ刻んでください"と言わんばかりの真っ平らな石面を直立させておきながら、何の文字も刻まなかったことに対しては、"一体どうした日本人!"と叫びたくなります。4世紀後半においても日本は無文字文化だったことの証とされても仕方ありません。これには、文明が後れていたというよりも、"我々の言語に文字など必要ない、文字では表現できない言葉なのだ"という頑迷さすら感じます。なお松岳山の丘陵からは、江戸時代に墓誌が出土しており、銅板の表裏に次のような銘文が刻まれています。
(表)惟船氏故王後首者是船氏中租王智仁首児那沛故首之子也生於乎婆陁宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為
(裏)三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也
「船氏王後首は王智仁首の孫、那沛故首の子です。乎裟陁宮治天下天皇(敏達天皇)の時に生まれ、等由羅宮治天下天皇(推古天皇)に仕え、阿須迦宮治天下 天皇(舒明天皇)のときにはすぐれた才能を認められ、冠位十二階の第三等にあたる「大仁」の位を賜りました。そして辛丑年(641)12月3日に没しました。その後、戊辰年(668)12月に松岳山上に埋葬しました。夫人安理故能刀自とともに同じ墓に埋葬し、墓は兄の刀羅古首の墓と並んでつくりました。この地は永遠に神聖なる霊域であり、侵してはなりません。」
(1961年国宝指定)
期待するのはまさにこのような事績、没年、被葬者名と血縁を記した簡潔明快な銘であり、古墳時代初期の石室にもこうした墓誌が埋もれているに違いないという思いで古墳巡りを続けているわけです。松岳山古墳周辺の丘陵にはかつて小古墳が点在し、古墳群を形成していましたが、松岳山・茶臼塚以外は高度経済成長期の宅地造成により消滅し、過去の出土品も多くが所在不明となってしまいました。船氏王後墓誌はこれら小古墳の出土品の一つと思われます。名も無い小古墳にすらこれほど貴重な史料が埋もれていたのですから、いわんや未発掘の巨大古墳においてをや…です。松岳山古墳についてはやはり、佐紀陵山古墳と共有された有孔板石に重要な手がかりがあると思われ、日葉酢媛との関連性において改めて掘り下げてみます。