稲荷山古墳出土鉄剣 その2


となりの丸墓山古墳から見た稲荷山古墳

 乎獲居一族が16年ごとに家督を相続するとなれば、結婚するにしても杖刀人首に就任するにしても若すぎる、慌ただしすぎるというイメージがあるかもしれませんが、下図のようにまとめるとわかりやすいかと思います。結婚をして子を持つのが16歳、杖刀人首に就任するのがその16年後の32歳、さらに16年後に48歳で退任(もしくは死去)と、16年スパンで均等に表したものです。ただし結婚して即男子を授かるとは限らないので、相当な多妻・早婚であったことは想像できます。
 また武人という職業柄、殉職の危険もあり、親が早世した場合は若くして就任したケースもあったでしょう。乳幼児期の死亡を免れた場合の平均寿命は30歳程度であったと思われる古墳時代においては、誰もが生き急いでいました(逆に引退後も長く生きる者もいたため、曾祖父と曾孫が同時期に活躍するといった一見不自然な現象も発生します)。32歳で大王の親衛隊長に就任というのは武人として脂ののりきった世代、また隊長としての16年という活躍期間も十分な長さです。

 修復された金象嵌が照明のもとで怪しげに輝く様を実際にガラス越しに見たときには、うち捨てられた石壁の奥、錆の底から古代史の真相が1500年ぶりに姿を現した様に感動を覚えました。この象嵌に対し、「その文字の稚拙さ」ゆえに「古代の大和言葉を漢字の音を頼りに何とか記録にとどめようとする、古代人の涙ぐましい営為に感動した」といった論評を見かけましたが、私の感想は少し違います。銘文は115字と長文であり、日本人が5世紀後半に漢字を使用し始めたばかりとは思えません。横画の傾きがまちまちであったり、全体に丸っこくかわいい印象を受ける点は、1世紀前の広開土王碑と比べても稚拙とまで言われるレベルではありません。

稲荷山鉄剣銘と広開土王碑文に共通する文字

 加えて言えば、銘文が稚拙と論ずる向きはさぞ達筆かと考えれば、その確率は4割ほどでしょうか。現代人の筆跡はプリンタで打ち込まれた活字ではありません。身の回りの書類で接する現代人の肉筆を総覧してみると、字のうまい人の割合は多く見て4割程度、6割以上は悪筆と言わざるをえません。小中学校で書道を履修するにもかかわらずこれほど悪筆が多いということは、習字教室に通わなければ悪筆は直らないということでしょう(文化庁によると、書道を習い事とした経験のある人口割合は33%ほど)。
 銘文は"稚拙"には当たらず、国内の書体の発達過程にあった、という方が適切でしょう。上図の「亥、至、今」といった字体を見ても、中国の漢字が朝鮮半島でいったん消化されたうえで、渡来人によりもたらされ、それを雛形として日本の漢字文化が発展していくのだということがわかります。面白いのは「為」の字に省略が施されている点で、後の仮名文字の発生につながるユニークな創意を感じます。
 「古事記」と「日本書紀」に共通する記述として、「応神天皇の代に百済王が派遣した和迩(王仁)が文首の祖になった」とあり、5世紀初頭に漢字を当てる表記が始まったと考えるのが文献上は妥当な線かと思います。以後稲荷山鉄剣銘に至るまでの50年余りの期間に記された銘文の発見、これが強く望まれるところです。
 埼玉古墳群の発掘は、稲荷山古墳に狙いを定めて行われたわけではありません。当初発掘調査は、古墳群の前方後円墳の中で最小の愛宕山古墳で行われる予定でしたが、崩壊の危険があるため、半分崩れていた稲荷山古墳に変更されたとのことです。ノーマークの古墳から世紀の発見がもたらされたこの経緯は、地方古墳における一級史料埋蔵の可能性を、少なくとも2倍に高めたことになります。陵墓の埋葬施設の調査禁止が永久に続くのであれば、地方の古墳の発掘を積極的に推進することによって、3~4世紀の天皇を、日本人の多くが架空の存在と決めつけている、その不名誉な扱いから救い出すことができるかもしれません。


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