稲荷山古墳出土鉄剣 その1

 御墓山古墳の被葬者と目される大彦命について探ってみたところで、稲荷山古墳に言及しておかないわけにはいきません。この鉄剣銘文の発見以前は、「日本書紀」の記す大彦命は~いや雄略天皇ですら~架空の人物とすら考えられていたのですから、地方の古墳にいかに重要な史料が眠っているか、その可能性を知らしめる大発見でした。と同時に当然、これまた架空の人物扱いされる父・孝元天皇の実在性もぱっと明かりを灯されるように自動的に高まるわけですが、そこに言い及ぶ記事はなかなか見当たりません。銘文の発見から46年、未だに孝元天皇は、いや大彦命ですら非実在とする主張が展開されていることに驚きますが、逆に長い年月が経過したからこそ反動的な揺り戻しが起きているように見えます。
 非実在説の論旨は、「各首長が各々の祖先信仰に基づいて上祖とした名の一つがオホヒコであり、埼玉の首長も単にその一例である、複数の氏族の上祖に名がのぼるような曖昧な存在は、集合霊としての架空の祖神にすぎない」、といったところです。思考の向きが全く逆であると感じますが、そもそも古代の首長は複数の妃をもち絶大な繁殖力を誇る男であり、子をことごとく中央や地方の要職に配し、その結果として広範囲にわたる複数の氏族の上祖として名がのぼることとなります。古代人は現代人のように祖先の正体に無関心ではない、名跡を保つため自らの血統を必死にたどっていたはずだという点に思い至るべきです。
 稲荷山古墳出土鉄剣のような一級の、いや超弩級の価値をもつ史料は、埋葬施設が未調査であるどの古墳においても発掘の可能性が秘められている、そう考えるだけでも地方の古墳の観察はわくわくする体験となります。こうした地方の古墳の地道な調査が進むことで、皇統の周辺に枝分かれする親族の実在が明らかにされ、やがて芋づる式に欠史八代の天皇の実在が証明される日がくることを夢見ています。

銘文(読み下し)
「辛亥年七月中に記す。乎獲居臣⑧の上祖、名は意富比垝①、其の児、多加利足尼②、其の児の名は弖巳加利獲居③、其の児の名は多加披次獲居④、其の児の名は多沙鬼獲居⑤、其の児の名は半弖比⑥、其の児の名は加差披余⑦、其の児の名は乎獲居臣⑧。世々杖刀人の首と為なり、奉事し来きたりて今に至る。獲加多支鹵の大王の寺。斯鬼きの宮に在りし時、吾、天下を治めることを左く。此の百練の利刀をつくらしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

 この銘文は、辛亥年(471年)に記したことを述べたうえで、上祖である意富比垝(オホヒコ)から始まり、当人である乎獲居まで続く①~⑧の8代の系譜を語り、乎獲居が代々杖刀人の首として奉事し、獲加多支鹵大王の寺(宮)が斯鬼宮にあった時に天下を左治したこと、そしてこの鉄剣銘に記した内容が自分の奉仕してきた由来であることを示しています。2代目の多加利足尼、これが伊賀の阿拝氏にあたるのか、それとも別途分かれた傍系なのか今のところわかりません。
 「獲加多支鹵大王」の文字は「ワカタケルオオキミ」と読まれ,「日本書紀」で「オオハツセノワカタケルノミコト」と名が伝わる雄略天皇であることはほぼ確定です。これが今のところ、現存する最古の日本語文と位置づけられていますが、英語が歴史上初めて書き表されたのが5世紀後半ということを考えれば、日本語の表記の出現がそれほど恥ずべきほど遅くはないのだと慰みを得られます。
 乎獲居の上祖は開化天皇と同時代、8代目の乎獲居は雄略天皇と同時代ということが判明したので、一族の系譜と4~5世紀の天皇系図を対照させることが可能となります(下図)。たとえば多加披次獲居は仲哀天皇に仕えた可能性がある、仲哀天皇記にそれらしき人物は登場しないか、といった考察の助けとなります。また、8代を均等に配すと1代につき16年となりますが、これは家督が直系で継承された場合の平均活躍年数、古代人の平均寿命を考えるうえで重要な手がかりとなります。

 大彦命の兄弟である開化天皇の陵墓は、現在寺院の敷地内に埋もれ、細長い楕円の等高線が1本のみ描画される全長100mの墳丘で、一応は前方後円墳とされていますが、これは御墓山古墳と比べてあまりに貧相すぎます。一介の将軍の墓が、兄弟である天皇の墓より大規模であることはありえません。父である孝元天皇陵も同様です。
 大彦命の墓としてもう一つの候補である川柳将軍塚古墳は、開化天皇陵と同じくらいの規模かもしれません。大彦命が北陸から長野盆地へ入り、川柳将軍塚古墳に葬られたとすれば、この地域を東国支配の前線として一族が旧中山道を通じて関東への進出を果たし、8代後の乎獲居につながるという流れでとらえることもできます。

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