松岳山立石の孔の意味 その1

 船氏王後墓誌には松岳山古墳周辺から見つかったものであるとの伝承があり、その出土地を探す江戸時代の調査のなかで、松岳山に立石が2枚存在することが確認されていました。しかし石棺についての記録は残っていないため、当時はまだ石棺は積石に埋もれていたと思われます。その後なんらかの人の手が加わって石棺が露出し、明治時代初頭の堺県令税所篤による"乱掘"により副葬品が取り出され、1922年には後円部のみが史跡指定、ようやく1954年になって前方後円墳であることが確認されたという経緯をたどります。築造時期は4世紀後半であり船氏王後墓誌の出土は誤認であることも、このとき明らかになりました(「松岳山古墳の立石〔中西靖人〕」による)。

 写真の印象では立石は直立しているように見えたのですが、図面を見ると水平線に対して35〜37度の角度まで外へ倒れています。これが造営時にすでに傾いていたのか、直立していたのかがまず問題となります。側面からのトレースを見ると、ほぼ同じ角度で外側へ一様に倒れていることから、直立していたものがそれぞれに倒れたとは考えにくいところです。現在は下方約3分の1が積石に埋まり安定した状態で、立石の中心線と石棺の中心線がほぼ一致し、上から見た対称性も保たれています。

「松岳山古墳の立石(中西靖人)」による

 この立石が"謎"とされる所以の「孔」ですが、2枚とも左右中央の位置にあけられていること、前述したように立石の中心線が一致することから、何らかの精度を保つために設けられたものと考えられます。それは、孔から覗いて平行を確認するといった測量機のようなものではなく、立石に傾斜をつけるために必要な仕掛けです。たとえば2つの孔に1本の棒を通すと考えると、孔も板面に対して30〜40度の角度であけられていなければなりません。孔が斜めに穿っているのかどうか確認ができませんでしたが、通したものは棒ではなく縄ではないでしょうか。
 現場の至上命題は2枚の立石を一様な角度に傾けることです。自分が人夫の一人であると想像してみると、板を直立させるよりも、斜め(しかもかなりの角度)に固定する方がはるかに難しいのは明らかです。2枚の立石を同時に斜めに設置するには、最初からたるみをもたせた縄を直立させた2枚の立石に通して両端を固定し、南北それぞれの方向へ立石を同時に傾けていく方法が考えられます。根元は盛土と積石である程度支えておき、両側に多勢を配し、かけ声とともにしだいに傾きをつけていき、縄がピンと張って角度が確定し、安定を保ったところで土台を改めて整えます。
 通した縄はいわば工具を現場に取り残すようなものですから、外観が無粋にならないよう、安定した平衡状態を確認した後に紙垂のような装飾をつけ、しめ縄が石棺の上に渡されるような形で竣工としたのではないでしょうか。この孔の実際の形状、向き、サイズが知りたいのですが、記録がなかなか見当たりません。トレース上の天地と孔のサイズから計算すると直径3.7cmほどと推定され、十分な強度の縄を通せる大きさといえます。

 北側の立石にはくぼみが2か所残っていますが、これは穿孔を途中でやめた非貫通の孔ではなく、縄を固定する機構、つまり縄の端を木の止め杭に結びつけ、その杭を受け止めるためのくぼみ領域と考えられます。力学的には説明できませんが、大きい板よりも小さい板の方にこそ止め具の構造が必要であるという経験則が工人の間にあったのかもしれません。トレースでは南側立石の左右に2本線が引かれており、同じような水平線が北側立石の裏側の下のくぼみにも渡されています。これらの横線がくぼみであれば、まさにこの位置で左右に渡された縄を固定するための受け皿と考えられます。
 1400年の時を経て縄も木も朽ちて消失した果てに、現在のような不可思議な姿が残されたわけです。こうした実用的な用途と、装飾的な用途の双方を兼ね備えた造作ではないかというのが、この孔に関する仮説です。

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