似ても似つかぬ派生文字


 吉野ヶ里遺跡の日吉神社跡の発掘は9月から再開と聞いていたので,久々に検索してみましたが,特に新たな事実は上がってきていないようです。殷の遺跡から発見された甲骨文字は,どうも「整いすぎている(成熟しすぎている)」,さらに古いいわゆる夏の時代に漢字の先祖が存在したのではないか,という見方があります。このパターンを当てはめると,古墳時代以降の整った漢字の先駆となる文字が,吉野ヶ里で発見された石棺文字と見ることもできます。
 しかし,「魏志倭人伝」によると魏の皇帝からの印綬,賜物を引き渡した帯方郡の梯儁に対して,卑弥呼は上奏文を送り皇帝の恩に感謝したとされます。つまり身近に魏の時代の整った隷書を書ける人材がいたということです。
 外交と内政で文字種を使い分けていたと仮定したうえで,当時の漢字と九州の古代文字の間の関係性を,エジプトの神聖文字とスーダンのメロエ文字に対照させてみました。スーダンのヌビア人は,メロエ語を表すためエジプトの神聖文字とデモティックを草書体にアレンジして,メロエ文字として確立しました。これは神聖文字よりも劣る文字体系というわけではなく,神聖文字を理解している人々だからこそ,自らの言語を表すのに都合の良い言語を生み出すことができたということです(「図説古代文字入門(河出書房新社)」より)。注目すべきは,神聖文字とメロエ文字では読む方向が逆であるという点です。吉野ヶ里の石棺文字が横書きであっても不思議ではありません。また,メロエ文字の草書は元の神聖文字とは似ても似つかぬものが大半です。吉野ヶ里の石棺文字は,漢字の面影を強く残した仮名文字とは別の形で,漢字から派生していったと考えてはどうでしょう。
 ミケーネ文明で使用されていた線文字Bは,粘土板の発掘状況から推察して少なくとも200年ほどは使用されていたということです。この記述を見て驚いたのは,文明の先進地においてもわずか2世紀で絶滅する文字もあったという事実です。奴国~邪馬台国にかけての3世紀にわたって使用されていた独自の草書あるいは表音文字が,神武東征をきっかけに大和で急速に漢文化していったという流れで考えても無理がありません。しかもこの線文字Bが19世紀末に発見されたとき,まず考古学者たちは「これは石工が作業中につけた目印である」と決めつけたとのこと。吉野ヶ里石棺文字も今のところ同じような扱いを受けています。
 石棺に刻まれたと考えられる確実な内容は,地位・諡/本名・没年月・年齢です。古代の人々がこうした銘を金石文として残した目的は,故人の来歴を後世へしっかりと伝えることでした。掘り起こした現代人は,少なくともそれを読み解こうと努力する責務がある,という気持ちで日々考えを巡らせているところです。次回は没年月の記述がないかどうか探ってみたいと思います。

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