被葬者の系図上の配置
佐紀陵山/銚子山を中心とする類似8墳の被葬者と推定される人物を、系図上にまとめてみました。基本的には多氏を除けば天皇から見て1親等ないし2親等クラスの人物であり、最も続柄の近いのが0親等(配偶者)の日葉酢媛となることからも、佐紀陵山古墳が最大規模を誇るのは必然と思われます。それではなぜ規模の下位の松岳山古墳と佐紀陵山古墳の間に有孔板石が共通してみられるのか、これについては、両古墳の規模の落差が、逆説的に埋葬施設未調査の古墳においても有孔板石が存在することの可能性を高めているのだ、ととらえることができます。
類似するということは "次々と模倣された" ということであり、家系上は最も古い大彦命の御墓山古墳がその源流と考えるのが自然ですが、規模の面から見ると最小の膳所茶臼山古墳(彦坐王)が最も古いひな形であった、つまり大彦命は彦坐王より後に没した、と考えると筋が通りやすくなります。この時代は著しく早婚で世代間のスパンは短く、子が父より先に埋葬されることも珍しくはなかったのではないかと思われます。
一方で、傍系であった丹波道主命の系統が日葉酢媛の代に再び皇統とつながったことで、ここに最大規模の古墳が造営されることとなり、丹波道主命の代に生まれた古墳の型式を日葉酢媛が大規模に踏襲した、という流れも浮かびます。あるいは日葉酢媛の墓として造営された佐紀陵山古墳をひな形として、さかのぼって丹波道主命や彦坐王、大彦命の墓も築造され、遺体が改葬されたと考えることもできます。築造時期は約半世紀の間に集中しており、同類の古墳が短期間のうちに一斉に伝播・終息したと考えられるため、世代をさかのぼっての改葬は十分ありえます。日葉酢媛以降の人物に関しては、同型式の古墳を授けるには日葉酢媛にとって特別な間柄である必要があり、子である五十瓊敷命、稚城瓊入彦命が摩湯山古墳、五色塚古墳の有力ピースとして浮かび上がります。遠戚である多氏との関係性については、大彦命が多氏の祖でもあるという記述もみられますが、このあたりは定かでありません。
系図を四道将軍という括りでながめてみるとどうでしょう。北陸に派遣された大彦命、丹波に派遣された丹波道主命の2名が四道将軍に当たります。豊城入彦命は四道将軍による地方統治より20年ほど後、地方平定の一環として四道将軍とは別に、未開の東国へ送られた武将です。五色塚古墳の主が吉備津彦命であれば、四道将軍という括りに価値を見いだせるかもしれませんが、吉備津彦命の墓はどうも別途存在するようだという結論に落ち着いたので、この考えはひとまず行き止まりです。