野口王墓(天武・持統合葬陵)

 野口王墓(天武・持統合葬陵)は天智天皇陵と並び,被葬者が確定している数少ない陵墓の一つです。堀はなく,墳丘の裾をぐるりと一周できる小道が整備されています。柵や堀に囲まれ見学者を拒む陵墓が大半を占めるなか,この古墳は被葬者の格の大きさに比べてあまりに身近に接することができる構造と小ぶりな墳丘がとても印象的で,まさに古墳時代の終末期を象徴する古墳です。

野口王墓(明日香村)

 江戸時代までは,見瀬丸山古墳(先述した小学生による探検で石室の写真が公表された遺跡)が,天武・持統陵と考えられていましたが,石棺が2つあったことから,火葬された持統天皇が葬られたとは考えられません。野口王墓は鎌倉時代に盗掘を受け,遺骨や遺灰が暴かれましたが,そのときの記録をもとに八角墳であるとの説が唱えられていましたが,実際に八角墳であることが明らかになったのはつい最近,2013年のことです。宮内庁が1950~70年代に行った発掘調査によると,「最下段の一辺が約15m,対角辺が約40mの正八角形で,高さは約7.7mの5段構造で,最上段は高さ約3mと他の段より高くストゥーパ(仏塔)のような形状」と推定されました。これらの詳細がようやく公表されたのが2013年です。お役所仕事にしても遅すぎますが,公表する気になっただけまだ救いがあります。
 646年に大化の改新の一環として「薄葬令」が発布されました。これは,身分に応じて墳墓の規模を制限する法令です。墳墓は簡素化され,前方後円墳が造営されなくなるとともに小型化していきました。高貴な身分であっても,築造可能な古墳の規模は制限され,人馬の殉葬も禁止,陵墓の築造期間も短縮されたことで民衆の負担は軽くなりました。
 こうした改革の矢先に斉明天皇が運河工事を始めたため,民衆が一揆寸前の行動を起こしたわけです。7世紀中ごろには,中国の思想の影響で,天皇は「天下八方の支配者にふさわしい形」としての八角墳に葬られるようになります。7世紀末には仏教の思想に基づいて火葬が導入され,野口王墓には天武天皇の后であった持統天皇の遺灰も納められました。

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