「王家の谷」伯耆谷

 丹波から山陰にかけての日本海側の地域は古くから鉄資源が豊富で、8代孝元天皇のころ丹後半島の竹野川流域に入った鍛冶集団が、陸耳御笠を用いて鉄の採掘をしていたと伝えられます。先述したように陸耳御笠は、彦坐王と日本得魂命に討ち取られた土蜘蛛の長です。また、出石心大臣命を祭神として伊豆志彌神社を建立した川上摩須郎女の父、川上摩須の一族は地元で産する砂鉄をもとに鍛冶を行っていたと考えられ、その本拠地は伊豆志彌神社と向き合う伯耆谷にありました。物部氏は出石心大臣命が但馬国の統治を任されたことをきっかけに、製鉄と深い関わりをもつようになったのではないでしょうか。物部氏と丹波道主命、天之日矛との関係性が見えてきましたので、ここで三者の系図をむりやり統合してみました。

 前回、丹波道主命の妻である川上摩須郎女の、天之日矛の勢力に対抗する意図について述べましたが、改めて調べてみると、丹波道主命の父・彦坐王の妻の一人である息長水依比売命の父は国忍富命、その妹の新河小楯姫が出石心大臣命の妻となったため、川上摩須郎女と出石心大臣命には血縁があったわけです。彦坐王×天之日矛という対立構造は、その後の但馬の動向にも映し出されています。彦坐王の妻の一人である息長水依比売命を同母とする丹波道主命の兄弟に、神大根王がいます。その子孫は、豊岡盆地からさらに内陸へ上った南但地方(現在の朝来市周辺)に勢力を築き、成務天皇の時代に船穂足尼が初めて但馬国造に任じられます。北但の天之日矛を祖先とする勢力はこうしてしだいに押されていきました。

 川上摩須が本拠地とした伯耆谷の地名は、7代孝霊天皇が大矢口宿禰ら引き連れて遠征を行った伯耆国(鳥取県西部)との関連が想像されます。ともに鉄資源の豊富な地です。川上摩須郎女は日葉酢媛の母であり、つまり日葉酢媛はこの伯耆谷を訪れたことがある、あるいは幼年の一部を過ごしたと考えられます。伯耆谷には川上摩須を祭神とする衆良神社があり、ほぼ同じ場所に川上摩須の館跡があります。これは朽ちた標柱が残るのみで、遺構はありません。そこから北へ約6km移動した甲山には、日葉酢媛の入内を記念して川上摩須が勧請した熊野神社とともに、同じく川上摩須が勧請した丸田神社が鎮座しています。そこから2kmほど南には丹波道主命を祭神とする陵神社があり、その山頂部は丹波道主命の墳墓にあたり西麓の集落は墓守の子孫である、との言い伝えがあります。
 また、伯耆谷には弥生時代後期の遺跡や大小約100もの古墳群が密集し、「王家の谷」とよばれます。エジプトのテーベになぞらえた呼称でしょうか、開化天皇の孫である丹波道主命、垂仁天皇の妃である日葉酢媛に縁の深い伯耆谷は、まさにその名に値するといえます。湯舟坂二号墳は全長18mと小規模な円墳ですが、早い時期にうずもれてしまったゆえに盗掘を逃れ、危うく圃場整備で破壊されてしまう寸前に貴重な遺物が大量に発掘されました。
 小ぶりな墳丘に比べ石室は全長10.6mと丹後では最大規模級で、内部には大量の武器、金環、玉類、約200もの須恵器が所狭しと埋蔵されていました。なかでも全長122cmと推定される金銅装双龍環頭大刀は〜美術的価値には疎いので丸写ししますと〜「双竜式環頭の内側にさらに玉をふくむ一対の"子竜"を鋳出した稀有なもので、現存唯一の遺品」であり、精巧な彫金技術が用いられているとのことです(国指定文化財等データベースより)。地方+未盗掘の古墳がどれほどのインパクトを秘めているかを見せつける結果となり、出土遺物は一括して重要文化財に指定されました。ただし仏具として用いられた銅鋺が出土したことから、川上摩須の時代から2世紀以上下った仏教伝来以降の古墳であり、その築造時期は6世紀後半と推定されています。
 伯耆川右岸の徳良山からのびる尾根の先端に位置する須田平野古墳は、同じく6世紀後半に築造された全長17mの円墳です。その石室は伯耆谷で最初に築かれた横穴式石室で、規模も湯舟坂二号墳に次ぐ大きさでした。しかし、石室の入口は近世には何らかの理由で開いてしまったものと思われ、内部の副葬品は一切残っていません。古墳の南東では高坏などを用いた祭祀が行われていたことが確認されています。

(地理院地図より作成)

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