膳所茶臼山古墳と彦坐王

 膳所茶臼山古墳(大津市)は、天智天皇陵の背後を流れる琵琶湖疏水が長等山を貫流した先に開ける湖南低地の、湖岸約1.2kmに位置する前方後円墳です。墳丘長は佐紀類似墳の中では最小ながら、滋賀県内では第3位の規模です(122m)。伝承される被葬者の一人である彦坐王は、9代開化天皇の皇子で10代崇神天皇の弟、そして丹波道主命(銚子山古墳被葬者と仮定)の父、つまり日葉酢媛(佐紀陵山古墳被葬者と仮定)の祖父にあたります。今回の佐紀陵山/銚子山をはじめとする類似墳の被葬者としてはすんなりと受け入れられる比定で、家系的には類似墳の中で最古の古墳ということになります。しかし墳丘長は崇神陵とされる行燈山古墳のほぼ半分であり、大和から遠い立地も合わせて、生前に何か隔てを置くような事情があったのかなとも思わせます。

 膳所は壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した地であるとの伝承も残り、後円部には大友皇子と物部連麿はじめ6名の臣下を葬ったとされる「葬り塚」が残っています。300年も前の4世紀後半に築かれた古墳ですが、近江大津宮から約5kmの距離であることもあり、少なくとも貴人の墓であるとの認識があったうえで、ここを死地に選んだものと思われます。
 なお同じ古墳時代前期末の前方後円墳として、膳所茶臼山古墳から北東39kmの琵琶湖東岸に荒神山古墳(124m)があり、これは膳所茶臼山古墳と形状・大きさがほぼ同じであり、「ともに琵琶湖における水運を担った有力な被葬者が想定されている」とのことです。しかしこうした、「○○の要地に位置するので○○を掌握した地域の有力者であろう」といった結びの記事は、思考停止の感がぬぐえません。それは至極当たり前に思い当たるところであり、ふーんで感想は済んでしまいます。
 渋滞を招くので出口は左折のみという、独自ルールを設けているホームセンターがありますが、見事にすべての車が列をなして右折していきます。土地柄等を考え合わせても、自分の目前で客層が急激な偏りを見せたとは確率的に考えられません。警備員が立っているにもかかわらず堂々と規範を破る人間が過半を占めるのを目にして、次のことを確信しました。日々ニュース映像の埋め草に使われる犯罪者は、社会に潜伏する得体の知れないアノニマスではなく、私たちの目の前にあふれている良識然とした人々であるということを。同様に、近畿の大規模古墳は未知の被葬者であふれているわけではなく、その6割方、事によると7割は史書に名の残る有力者を当てはめることができるのだという感触があります。謎は謎のままとしてアノニマス層に放置される古墳群と、記紀をはじめとする史書に名の残る人物は、別々の層に分離しているのではなく、その多くが重なり合っています。その点においては、全天皇の陵墓をもれなく治定している宮内庁の姿勢は偉いともいえます(その功罪は背中合わせですが)。
 さて、膳所茶臼山古墳については発掘調査の報告書を検索しても何もみつからないので、石棺の様式はわかりません。茶臼山出土と伝わる円筒埴輪、そして葺石の一部と周壕が確認されているのみで、それらと墳丘の構造から築造時期は4世紀後半と推定されています。それでは彦坐王が被葬者であると仮定して、どのような経緯で近江に葬られたのでしょうか。
 開化天皇とともに奈良盆地北部の和邇氏の拠点で活動していた彦坐王は、丹波に派遣され、青葉山中で狼藉を働いていた土蜘蛛を平定しました。その功を賞して、崇神天皇は彦坐王に丹波(京都府北部)、多遅摩・二方(兵庫県北部)の三国を授けました。墓所としては膳所茶臼山古墳のほか2つの候補があり、任地の面では兵庫県北部の粟鹿神社(朝来市)が有力視され、いっぽう伊波乃西神社(岐阜市)は宮内庁により陵墓参考地とされています。
 「新撰姓氏録」では、その四世孫が近江国浅井郡に土地を賜り、またその六世の後に治田連の姓を賜ったといわれています。つまり近江に本拠を置いた四世以降の子孫が自分たちの祖である彦坐王を祀るため、さかのぼる形で膳所茶臼山古墳を造営したという解釈になるのでしょうか。しかしこれでは築造時期が100年ほど新しくなってしまいます。また、任地という面では、日本海三大古墳のうち築造時期が2番目に古い銚子山古墳(201m)を丹波道主命と比定したうえで、最も古い蛭子山古墳(145m)をその父彦坐王の墓にあてることもできます。

 では4人の妃のうち、丹波道主命を産んだ息長水依比売命を除く3人の中に、近江に関連のある人物はいないでしょうか。沙本之大闇見戸売との間の子に琵琶湖東部(任地はおそらく荒神山古墳から約10km南東あたり)の豪族の祖となった袁耶本王がいます。しかし、南岸の膳所との間を結ぶ一族の足跡は見えてきません。考察が行き詰まったところで、膳所の地名の由来について調べてみました。膳所は相模川が形成する扇状地で、膳所茶臼山古墳はその扇頂部に位置します。扇端部は琵琶湖に突き出た崎で、古くは「陪膳の崎」とよばれていました。天智天皇が大津宮へ遷都したとき、この地を御厨所(料理をする所)と定めました。それ以前は、琵琶湖岸の田園として「浜田」とよばれていましたが、遷都後は「陪膳(天皇のめしあがりもの)の浜田」となりました。これが「陪膳の所」と言う意味から膳所と称されました。表記は時代とともに膳の崎〜膳の前〜膳前と変化し、短く「ぜぜ」とよばれるようになったということです(びわ湖大津観光協会HPより)。

(地理院地図より作成)

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