見出し画像

「Ultraman:Rising」から考えて -ウルトラマンに「勧善懲悪」を求めるべきなのか?-

どうも。
双頭怪獣パンドンの鳴き真似が得意なKトレです。

今回は余計な前置きなし!
先日よりNetflixで配信開始された「Ultraman:Rising」をぼちぼちチェックしてきた時の話です。

【記事は簡素ですが、本編のネタバレを大いに含みます。ご了承ください。】

.
.
.

・自由なる戦士ウルトラマン

去る6月15日より配信開始となった本作は、父親に呼ばれアメリカから日本へと帰ってきた天才野球選手ケン・サトウ=ウルトラマンの活躍と成長を描いた作品である。

100分強の本編を通してまず感じたのはウルトラマンというキャラクターの奥深さと懐の大きさである。
本作のストーリーはともかく、演出はしっかりとアメリカ寄りにされている。
例をひとつあげるとすれば、本作の鍵となる怪獣の子供=エミ(この場面でまだ名前は無いが)を育てる日々と、育児に疲れ一向に成績が上向かないジャイアンツでの日々が交互に映し出されるあのくだりとか、まさにピクサーやDWの映画などで何度見たか分からない手法で、特撮とは別方向の馴染み深さを感じた。
と同時に、「これもウルトラマンでいけるな」と妙に吞み込めた部分もあった。本作のウルトラマンは「デッドプール」や「ハンコック」程ではないにせよ割と自由で独善的の状態から始まるが、個人的には全然許容範囲だった。なぜなら「心」を大切にした展開だったからだ。ウルトラマンの奔放さは力に溺れたとかではなく、力に対するケンの見えない恐怖の裏返しであり、それをエミや周囲との交流で開いていくさまは結構「ウルトラマンしてるな」と感じた。つくづくウルトラマンって幅広い存在なんだなと、ケンに逆に教えられてしまったようでもあった。

もうひとう、物語の舞台である東京に対する解像度の高さも好感だった。
予告ではネオン街が目立ちいかにも「勘違いジャパニーズ」の雰囲気バリバリだったにも関わらず、いざ本編になると看板の小ネタがくどすぎず絶妙なリアルさを醸し出す。
更にケンがバイクを停めていた脇道が、すごく秋葉原の裏道っぽい坂道だったのが個人的に滅茶苦茶ツボだった。
地図に対して緻密ではないがデタラメでも決してないのだ。
(ただその代わり、重要人物のひとりである穏田博士が、まるで故やしきたかじんのような妙にカリカチュアされたジャパニーズヤクザの風貌だったのには苦笑いだったが。)

小ネタといえば、クライマックスの妙に目立った庵野監督っぽいビジュアル群には笑ってしまった。
メカジャイガントロンの正体や覚醒に至る流れはエヴァンゲリオンを想起せずにはいられなかった。そしてケンと父サトウ教授、二人のウルトラマンが隠田博士の操る巨大ロボ・デストロイヤーへと泥臭く立ち向かっていく姿は物凄く「シン・仮面ライダー」だった。小日向文世氏の名演もあってマッドさの中に衰えぬ父性を光らせていた教授のイメージが、この一瞬で少々変わってしまったりしている。

とにかく、一本の映像作品としての完成度はマニア視点からみて保証してもよい。「ウルトラマンの目的は調和にある」とか大仰なテーマが今ひとつ話について行ってない辺りを除けば、まとまっていたと思う。
これも、ウルトラマンだ。


・正義はなんだ?本当の敵はなんだ?

さて本作に対する感想を眺めていると、やはりアメリカナイズされた部分をどれだけ受け入れられるかが評価の分かれ目だなと感じるのだが、その中で一つ気になる意見があった。

「分かりやすい悪役がいないので、ウルトラマンらしさに欠ける。」

CGの動きがよくなかったとか、そもそもの戦闘シーンが代わり映えに乏しいとかならよく分かるのだが、「悪役がいない?」とはいったい。
しかもこれ、一人や二人の感想じゃないっぽい。

まず本作最大の悪役は明らかに、怪獣の殲滅を完璧で究極の目標とする隠田博士だ。劇中ウルトラマンは必要によっては(ケンの個人的感情の如何とは別に)怪獣を救うこともある存在であり、エミとの日々を通じてケンがそれを受け入れるまでがドラマである。隠田博士はそれを否定する悪役だが、彼にもそうするだけの動機がある。それは「妻と娘を怪獣災害で失った」というごくごくベターなものである。
それが、「悪役としての魅力を阻害している」とでも言うのか。
だがむしろこの手のテーマを扱うとどうしても力を悪役にしか描けなかった少し前のウルトラマンに比べてより健全である。しかも隠田は最終的に命を落としているので、形としての「報い」あるいは「救い」をうけてもいる。
それに考えてほしい。
ウルトラシリーズは、絶えず勧善懲悪ではなかったからこそ「仮面ライダー」「スーパー戦隊」よりも幅広い層に語られるジャンルだったはずだ。
なのに何故、明確な悪役がいない事が批判されるのか?

根本的理由は「勧善懲悪」と「単純明快」の混同だと思う。

近年のTVウルトラシリーズにおいて最も人々の心にヒットした作品が「ウルトラマンZ」である事は疑問の余地がないが、その理由は「ウルトラマンwith人間 VS怪獣」というシンプルな図式が最終回まで徹底されたからだ。これは前作「ウルトラマンタイガ」が宇宙人を社会的弱者に準えたようなスッキリしないエピソードを連作したのとは対照的であり、その反動がさらに人気を押し上げた。
これは間違いなく「単純明快」の成功例なのだが、どこかで「勧善懲悪」にすり替わってしまったようなのだ。
確かに愉快犯的な性質を持つセレブロという絶対悪はいたが、彼のしたことは人類の兵器開発をいいように利用して自滅させるという、人類に最低限の非が認められるものである。
この時点で、まだシンプルではるが勧善懲悪じゃない。

また歴代のウルトラマンが次々と集結しひたすら敵を一掃することから「勧善懲悪」の代表格とされがちな「ウルトラギャラクシーファイト」ですら、敵役のアブソリューティアンからは「一族の存続」とか不穏な言葉が飛び出しており、この時点で作り手は勧善懲悪どころか単純明快すら狙ってないのはウルトラタワーの炎を見るより明らかだ。

つまりウルトラマン、というかウルトラシリーズの"らしさ"として勧善懲悪を評価基準として扱う事って、ちょっと難しいんじゃないかな?と個人的には心配してしまうのである。

そりゃあ確かに、ヒーローが悪を吹っ飛ばす作品の気持ち良さったらありゃしないが、それをウルトラマンは可能な限り亜流でやってきた。なのにそれが、「らしさに欠ける」というのは少しモヤモヤした。
「Ultraman:Rising」に関していえば、寧ろ隠田を救わなかったor救えなかった事の方がウルトラマンとして賛否両論を受けなければならないように思う。(ちなみに自分は上述の通り、隠田は死が救済になり得るキャラクターだと感じたので、この議論に加わる気はあまりない。)
本当にリアクションに困る反応だった。

作品の個人的評価とは全く関係ない話で恐縮だが、こんな感じで見終わった後に変なしこりが残ってしまった。
「ウルトラマンの本質は何か」って、考えたら面白いけど、その前に作品としての方向性があって、それに合わせた本質を選んで批評するのが今のウルトラマンっぽいと思う。「ギャラクシーファイト」然り「シン・ウルトラマン」然り。

そうこうしてる内にもう「ウルトラマンアーク」の放送日である。

この作品の本質はバトルか、ハートフルか、それともリアリズムか。ちょっと考えながら見ようと思う。