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自分の人生のスライドショーを眺めている自分に気づいた日

朝目覚めてすぐに、SNSで繋がっている人の記事を読んだら、思わず共感してコメントしたくなってしまい、起きたてのまだ寝ぼけてる状態で、つい何も考えずに思ったことを書いてしまったら、明らかに機嫌を損ねてしまったと思われる返信が来た。

そこでドーンと、落ち込んでしまい、とにかく謝りの気持ちと、相手の立場に立った内容を書かなくてはと、必死になった。

そんな感じで始まったその日一日。気分は、ちょっと‥どころかかなり落ち込み、自分の至らなさを嘆きながら、ネガティブ色に染まったまま、外に出た。

そして玄関のドアを開けた瞬間、見知らぬ車が私の家の前に堂々と停まっていて、自分の車が出せない状態だった。おまけにその向こう側には、これまでなかなかに強い苦手意識を持っていたご近所の方が、なんと仁王立ちで立たれていて、私を見つめる、というより睨んでいた。

その車は、そのご近所さんのお客さんの車なのだけれど、そんなことは関係なく私は睨まれ、怖さでフリーズしたその瞬間、「この方に会わないようにと気を付けてきたけど、会ってしまったのって、いったい何年ぶりだろう‥」

と頭によぎった。

私は、このご近所さんがとても苦手だった。そして「今日に限ってなぜ会うのだろう?」と思った後すぐに、朝のSNSトラブルで受けた痛みが浮かび、「私の気分がかなり今ネガティブだから、同じ現象を目の前で見せられている」

と、「自分」から一歩下がって、目の前の現象をただぼーっと、眺めはじめた。まるでこれから始まるスライドショーを見るような気分で、その「怖さでフリーズしている瞬間」を切り取って、眺めていた。

そして、

「この事件は、予定通り起きるべくして起きている」

と魂が理解した

その後「気持ちを今すぐ切り替えないと、立て続けに今日は嫌なことが起きてしまう」と焦り出した。

けれど「焦り」は、焦りを生むだけ。

それを分かってはいるけど人間、そんなに簡単にすぐ気持ちを切り替えられるわけもなく、その後やはりネガティブ現象が立て続けに起こり、私は心が追い詰められた。

するとなぜかだんだんと、人生というものは、自分が自分の力で動かしていっているのではなく、勝手にどんどんと動いていっているものだという感覚がしてきて、「自分」がどこか遠くに置き去りになっていく感覚がしてきた。

なぜなら、「悪いことを引き寄せよう」と意識していないのに、次々に自然と目の前のスライドショーはネガティブに進んでいくから。

まるで私の深い奥底の感情を見抜いているかのように。

この潜在意識に湧き出てきたネガティブ感情は、自分でコントロールできないからどうしようもない。

人生の舵取り役の「わたし」というものは、いない? やっぱりほんとに存在しないのか‥

と途方に暮れた。

その後家に帰り、今日はおとなしくしていようとベッドに横になった。そしてふと、youtubeの占星術動画を見たら、この2週間はとてもネガティブな時期です、と予想されていて、思わず息を飲んでパタリと、スマホカバーを閉じた。

もう起きて何かをしようとしたらいけない!と直感が走り、とにかく寝ようと思った。

目をつむった瞬間、リラックス感とベッドの柔らかさが肌に流れてきた。「あー、ありがたい、感謝。」と言う言葉が、自然と浮かんできた。

そこで、「そうだ!感謝を心の中で唱えよう」と、最近やってなかった感謝ワークをやり始めた。「感謝」、「感謝」、「感謝」と心の中で唱えながら、感謝できることを探した。

「目が見えていることに、感謝」。など、なんでも感謝した。

そうしたら急に‥世界が柔らかく、優しく見えてきた。

私はホッとした。

私の気持ち次第で、自分の人生のスライドショーは切り替わる。けれど、この気持ちの切り替えも、自分がしたのではなく勝手に起きている感覚。わたしが切り替えてない感覚。

こんな感覚は初めて。

ただ最初から用意されていたコマ切れのフィルムを無数につないでいくショーを見ている「自分」が思い浮かんだ。

わたしはただ、見ているだけ。

私の思考もついには、勝手に浮かんでは消えていくだけのものなんだと、という結論に至った。

ということはもう究極、「息をして生きている」だけでいいのではないか。

自然と生まれてくる思考の波に呑まれていく「自分」を、ただ眺めている。

そこにネガティブもポジティブもない

ジャッジもない

思考から外れたところで「いると思考している自分」が、ただ眺めている。

なんだか変な感じだけど、真実さえもない感覚。

こんな感じで、自分の人生のスライドショーを見ている気分で一歩下がって目の前のことを眺めると、ただの「現象」として人生が見えてくるので、

そこに「抵抗」という気持ちが、

全く生まれなくなった。

たとえ「抵抗」しても、自分の人生のスライドショーは勝手にどんどん進んでいく。

「わたし」という主観を置き去りにして。

今日はそんな風にして、これまで目の前のことに完璧に呑まれ、抵抗していた自分に気づいた日だった。


なので、究極のところ人生は、

あらゆる「抵抗」をなくし、

ただ「ぽっと」、自然に頭に浮かんできたことをやる。

それだけ

それだけの力しか、ないのかもしれない。

凄い自分もいないし、どうしようもないくらいダメな自分もいない。

そう思うと、急にスーっと体の力が抜けていき、肩の荷が降りていった。

あー、人生は、なんて「楽」なんだろう!

「楽」な気持ちでいれば、ずっと「楽」な人生が続いていく。

「わたし」はいないけど、大丈夫。

ただ「現象」がある、だけだから

そう思えば、

「感情」という「現象」にも振り回されることがなくなる。


そして、

わたしの「人生スライドショー」は、過去から辿って眺めていくと、

「起きた現象」が「一つの線」となって繋がっていることにも、ふと気づいた。

振り返ればたくさんの失敗があったから、たくさんの気づきが生まれ、エゴに振り回されていた自分にも気づくことができ、その結果、新しい人生を歩んでいる「今」、という

「瞬間フィルム」を

今、ただ眺めている。

そこに「気づく」ことができたから、もう大丈夫。

わたしたちは、そもそも進化するためにしか、

生まれてこないから

スライドショーの続きも、もう自分で予想できる。

そう、

不安になったり、心配したりしないで「自分」という世界を常に俯瞰して眺めるという

「気づき」によって、魂の意識レベルが上がって、

今まで起きたこと、経験してきたことは、全てがこれからの「幸せ」に繋がるためのものと

捉えることで、

過去の自分を含んだ「自分の核」の部分に対して、絶対的な「信頼」が生まれていく。


そうして「わたし」という一本のスライドショーは、

まさに今、「わたし」が信じている通りの

「愛・調和・感謝・癒し」で溢れた

美しい世界を紡ぎ出し、

そこに深い感動が生まれ、

最期には一本の、揺るぎない後悔しない人生となって

用意された

フィルムのコマはなくなり、

幕を閉じるのだろう














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