ななこSOSからガルビオン
自宅で絵コンテを描くのが大変になっていた頃、二宮さんが若手のアニメーターを集めて二宮事務所を久米川に作ったので、私も家賃の一部を払い仕事場として使わせてもらいました。
バイクの免許を取ったのでタツノコスタジオのある鷹の台、二宮事務所の久米川を走り回っていました。
国際映画社のコロコロポロンの後番組として「ななこSOS」が決まり、監督に抜擢されました。初監督作品です。
二宮さんにキャラクターデザインとして協力してもらいました。
初めての監督だったので、力の無さを感じる毎日でした。
ななこSOSが終わるころ、国際映画社のプロデューサーから「しぎのさんはどんな作品をやりたいの?」と聞かれたので、ポール・ギャリコの「ジェニイ」の企画書を提出しました。
「その前にこの作品の監督をやって欲しいんだ、その後にジェニイやるから」と言われ嫌々受けた作品が「超攻速ガルビオン」でした。
なぜ嫌々だったかと言うと、そういうシリアスな作品が苦手だったからです。
タイムボカンシリーズでも、ヤットデタマン、逆転イッパツマンなどのリアル物は苦手でした。
ガルビオンは結局国際映画社の倒産という形で打ち切りになり、私は百万円ほどのギャラを貰えないままでした。
そんな時に声をかけてくれたのが「チックンタックン」の監督をしていた安納正美さんです。
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