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海と空はひとつのようで交わらない

海辺に家を建てた。
そんなつもりは全くなかったけれど
勤めていた住宅会社の分譲地を確認しに行った時
ここに住もうと決めた。
海にはそんな力がある。


妻と小学校に上がる前の長男と幼稚園の入る前の次男を連れて
家族に土地を見せた。
裏の松林を3分ほど歩くと、遠浅できれいな海水浴場に抜ける。
西陽が沈む日本海、玄界灘だ。
時刻はちょうど日が暮れかかる頃だった。
遠浅の浜は潮が引くと100mほど先のテトラポットの防波堤まで歩いていける。
真っ赤に染まる夕暮れの少し前、太陽が水面に反射して金色になる時間。
引っ張ってきた三輪車に次男を乗せて水飛沫を上げながら砂浜を押して走った。
私たち家族の他には誰もいない夕方の広い浜に子供達の笑い声が吸い込まれた。


仕事柄週末は休みはない。
親父がいなくても海水浴に行ける。
海岸でビールを飲んでも歩いて家に帰れる。
そんな理由でこの場所に決めた。

話は子供たちが生まれた時に遡る。
家を建てる前から子供たちには帰る場所を与えておきたかった。
今は将来実家に戻るなんて時代じゃない。
街の様子も20年もすれば様変わりする。
だから長男には海を帰る場所を海にと名前に玄界灘の「玄」の字をつけた。
本人は未だ知らない。
次男には帰る場所に空を与え、名前に「蒼」の字をつけた。
本人は未だ知らない。


私には、彼らが海で遊んでいる風景で思い出に残る一コマがある。
それは、引っ込み思案な長男が次男を引き連れてビート板で
浅瀬の先にあるテトラポットまで泳いでいこうと乗り出した瞬間だ。
以降、私は彼らの人生の選択については何も口を挟まない。
なぜなら彼らはその時に自分で自分の生きたい方向へ進む意思を身につけたのだから。

そんな長男は大学に入学し、次男は高校生だ。
男兄弟らしく二人はいっさい会話をしない。
喧嘩もしないが、特に長男は次男に干渉しない。

私は家を建てた後、犬を飼いだし、以来毎朝犬とともに海岸を歩く。
これは家を建てるときは予定していなかったことだった。
けれど、一年中同じ浜辺を歩くと。
一日たりとも同じ景色がないことに気づく。
春は「生」を感じ、「冬」は死を感じる。
夏は「動」を感じ、秋は「静」を感じる。

浜辺に立って水平線を見る。
海と空が水平線で一つになる。
だが、現実はどこまで行っても海と空は交わらない。

長男が赤ちゃんの頃、お風呂に入れながらただ1曲の歌を歌って聞かせた。
島崎藤村作詞「椰子の実」の歌だ。
「〜新たなり流離の憂い」
人は、そう、ある人がある場所でその生命を誕生させ、育み
その命はその場所を離れ、どこかへ行く。
人は、でも、ことあるごとに振り返る。
自分はどこから来たのかと。
それは、これからどこに向かうのかという思いと一緒に湧き上がる感情だ。


長男がこの盆、一人暮らし先から実家に戻ってきた。
8月12日、夕食。
あいかわらず、気まずい雰囲気になるでもなく、盛り上がるわけでもなく
海と空は交わることなくその距離を保っていた。
ただ私は忘れない。
君たちは水平線に向かって二人で乗り出して行ったことを。
そして、安心して欲しい。
君たちが帰る場所は、永遠に変わらずにそこにあるということを。




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