#2 科学とは別の仕方で世界が把握される様を目撃したい
「お前は非科学的だ」と言われたらそれは、「お前はバカだ」と言われたのと同じである。科学的なことは良いことである。「科学的根拠に基づく」って書いてあったら買いたくなっちゃう人種もいる。科学界の王様である物理学を大学で専攻しようものなら、「なんだか頭良さそう」って思われちゃう。
私は科学をバカにしているわけではない。私も現在大学で「人文科学」をやってます。私は「科学ってすげえ」という感覚を強烈に感じている人間である。だって、はたからみれば、あんなに難解なジャーゴンを使って荘厳な理論を乱立させているように見えるのに、それは私の生きているこの世界を捉えるためのものだからだ。高度な理論立てを遂行しているのにも関わらず、この世界、この現実から遊離していないのは科学のすごいところだと思う。こんな感覚を小さいときから抱えていた。
でも。科学でこの世のことをまるっと平らげることができるなんて、私は微塵も思わないのだ。たとえば、今からものが見える仕組みを科学的に説明してみる。
「ものを見るときは、瞳孔から目に入った光が虹彩で調節され、ピントを調節する水晶体で屈折し透明なゲル状の硝子体を通過して、網膜の黄斑において焦点を結ぶ。その光が視神経を通じて信号として脳に伝達され、像として認識される。」
だそうだ。「なるほど」と思っただろうか。私にとって、この説明はなんの説得力も持っていない。この説明はものが見える仕組みの一般的な説明であって、私にはなんの関係もないのではないか。そもそも、私はものの「像」なんていう馬鹿げたものじゃなくて、「もの」そのものを見ているに決まっている。俺の見ているのは現実のこの世界で、俺の前にいる友人が像なわけない。大間違えだ、この説明は。
私は決して科学の説明能力を軽視しているわけではない。しかし、科学という営みを何億年と続けても、埋められない部分があるということを強烈に感じる。でも、科学以外の方法で世界が把握され始めるとき、おそらくその世界に私はいない。