『コバエと人間の関係が内包する哲学的要素に関する考察』


前提

①ここで示す「コバエ」は人間生活における一般的なコバエ全てを表す総称とする。コバエの生物学的要素に関して深掘りすることはないため、特定のコバエの種を定めることはしない。
②ラントムスレイルスキームによる仮説の存在が、各文に影響を及ぼしている。
③著者は経済学徒であるため、経済学用語が要所に使用されている。不自然な用途でもそのニュアンスを汲み取っていただきたい。

前書き

皆さん、こんにちは。
今回の『コバエと人間の関係が内包する哲学的要素に関する考察』では、コバエが発生するプロセスや、人間のコバエに対する感情などに焦点を当て、主に哲学的思考を用い考察をしていきます。
コバエという害虫と長く格闘してきた私が、独自の目線で考察をしていく中で、皆さんに新しい知見や発見を少しでも与えられたら幸いです。 
以下のようにまとめました。
1.諸概念
2.発展
3.まとめ

1.諸概念

生態
 
まず初めに、コバエの生態について解説する。コバエは春~秋にかけて活発化し、特に夏で猛威を振るう。主に湿気や腐臭を誘因とし、そこで繁殖する。コバエの発生源は特定しづらい傾向にある。これは他の多くの種類の害虫にあてはまり、それが彼らが害虫たる所以ともいえる。コバエは人間を刺すなどの直接的な害はないが、心理的、衛生的に有害と言えるだろう。

生物哲学
 後述する中で、生物哲学的要素について触れていくが、一般的な生物哲学で多く扱う倫理的要素についてはあまり扱わない。生命の尊重や種の存続、そのための環境保護などの概念は議論しない。あくまで人とコバエの関係について考察していく。

無作為
 
コバエと人間の関係は「無作為」に始まる。この「無作為」とは、コバエと人間との因果の渦中で、人間が望まずコバエが発生するということである。コバエを発生させるために生ゴミを露出させている人はいないし、コバエを招くために窓を開け放っている人もいない。この「無作為」は、他のいくつかの害虫に当てはまるが、特にコバエには議論すべき内在的概念があると考える。

2.発展

弱者のダイナミクス
 
コバエと人間の関係に焦点を当てる本稿において、私が特筆する内容である。結論から述べると、コバエは、ある種の弱さを抱える人間に対して比例的に発生すると言う説である。そして、「弱者」と言えてしまう人間とコバエの関係、それを俯瞰する社会の構造から「弱者のダイナミクス」と称する。まるでバタフライ効果のように、同時進行する世界で弱者と強者が存在し、ヒエラルキー内のエネルギー運動の元、全てに因果が生じる。経世済民の言葉が持つマクロ的発想につながる要素も含むと考える。


弱者の在処
 
私が先ほど記述した、コバエと相関する人間の「弱者」について説明する。一つは金銭的側面だ。低家賃で小汚いアパートと、高層ビルの最上階とを想像すると分かりやすい。どちらにコバエが発生しやすいだろうか。実際に、私が住んでいるアパートは軒先に小さい茂みがあり、そこからコバエなどの虫が恒常的に発生する。どれだけコバエの命の巡りを断っても、0から1が容易に発生するということだ。
 二つ目は人間性である。簡単な整理整頓ができず、食後の食器をなかなか洗わないような人だ。彼らはすべてを後回しにする。身の回りの細かいタスクだけでなく、締め切りのある課題など、先々のため”やるべきこと”を”やらない”のだ。これは金銭的な側面よりはるかに人を堕落させる要因となる。まさに「弱者」と言える。


不平等構造
 
コバエと人間のミクロな関係から「世の不平等、不条理」を多角的に検証することが出来る。
 私はコバエの発生について「無作為」と前述した。しかし、人間の生み出した環境下で発生した以上、コバエは”我々”が生んだのである。その事実を内包したコバエを、我々は憎み、殺す。この構図は、多くの意味で社会犯罪構造と共通する点がある。我々人間が生み出した社会的ヒエラルキーという環境下で、下層の人間が受ける「不平等、不条理」が犯罪を生み出し、そして我々は犯罪を憎み、弾糾する。弱者のダイナミクス≒社会犯罪構造が言えるなら、コバエと人間の関係が抱える哲学的要素についての説明が困難ではないのは明白だ。

3.まとめ

 「コバエは害悪」「鬱陶しい」「排除すべき存在」、このように簡単なところに帰結することは可能だ。しかし、その負のエネルギーが内包するものを、マクロな思考で考えると学術的要素を孕む。そこで得た気付きの一つが、私も弱者だということだ。本稿の「弱者のダイナミクス」は一般生活に関係した内容であるため、読者も納得しやすいと思う。少しでも皆さんの思考に刺激を与えることが出来ていたら幸いである。

後書き
 さて皆さんは、食事に対して畏敬の念を持ったことがあるでしょうか?当たり前にそこに置かれている肉片、魚の死体、それらについて一瞬でも”考える”。これが本稿で挙げる哲学の出発点です。畏敬の念そのものが必要なのではなく、結局は普遍的世界・内向的世界からの脱出なのです。当たり前と言えるミクロな世界から、無限の視野をもてるマクロな世界への転換こそが、学術的発展を生むと考えます。


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