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祈りの雨 #青ブラ文学部

 一目惚れだった。
 ヨルダン川の岸辺で、幼い私は迷子になっていた。母親の用事が終わるのを手持ち無沙汰に待っていたのだが、サンダルの革ひもが切れ、しゃがみこんだのはほんの数十秒。結び直したと思って顔を上げた時には、もう母の姿を見失っていた。
「ケガしたのか?」
 植物の育たない荒れ地で、少年の瞳は深い緑色だった。こちらを心配そうにのぞき込む顔は、後から思い返せば幼さが残る。私よりも二三歳は年上だったと思うが、それでも十に満たない。それでも当時の私は、年上の男の子がすぐそばにいるという事に驚いてしまい、なにも答えられずにいた。
「迷子になってしまったの」
 それだけ答えてうつむいた私に、彼は白い歯を見せて笑いかけた。
「あっちに行商人が来てるんだ。もしかしたら君の親はそこに居るのかもしれない。それに、遠くないところから来たんだろ? なら家まで送るよ」
よく日に焼けた腕を差し出され、私は胸を高鳴らせながらその手を取ろうとした。しかし彼ははっとしたように、手を引っ込めた。私の顔に閃いた陰りに気が付いて、彼は慌ててこう言った。
「ごめん。君が嫌だったんじゃなくて、あんまりきれいな刺繍だったから驚いたんだ」
 彼が言うように、私が母から風よけにとかけられたショールの裾には、細かい刺繍が施されている。族長である父が母に贈ったものだ。対して彼の服装はお世辞にも立派とはいえない。よくある麻の布地は、飾りや刺繍があるどころか本来の色は褪せ、砂混じりの熱風に何日もさらされたように、全体がうっすらと埃っぽい。
「私がまた迷子になったらどうするの」
 私は自分から、彼の手を取った。驚きに目を見開いた後、彼ははじかれたように笑い出す。体を折り曲げ腹を抱えて長い事笑うので、私は半分呆れながら、ずっと繋がれたままの手に頬が熱くなっていくのがばれないよう、祈っていた。
「それでは行きましょうか、お姫さま」
 私は将来、きっと彼を夫に迎えたいと思った。彼の方が身分が低いけれど、常に自分をかわいがる父はきっと許してくれると信じていた。
「ねえ、あなたは何をしにあそこにいたの?」
「魚を獲りに」
「とれるの?」
「得意なんだ。何匹でも獲れるよ」
 行商人から香辛料を買う母の姿を見つけ、私は心から安心すると共に、もう彼とは会えないのではないかと不安になった。
「あなた、名前は?」
「母さんは、エリシャって呼ぶよ。他の人からは呼ばれたことがないけど」
「またここで会えるかしら」
 彼はちょっと肩をすくめた。自分からはなんとも言えないという風だった。
「お願い。また私と会って。その時は魚のとり方を教えてちょうだい」
 彼は行商人と話す母の方をちょっと気にしながら、小さく顎を引いて了承してくれた。
「約束よ。これは今日のお礼」
 私は母からもらったショールを彼に押し付け、彼が何かを言う前に母の方へ駆けた。

 ひと月も待てず、私は一人で川辺を訪れた。果たして彼は、居た。
「エリシャ!」
 私が駆け寄ると、彼は晴れやかに破顔した。
「どう? 魚はとれた?」
 エリシャは眉を寄せ、首をかしげた。
「川の水が干上がって、全然だめだ。いつもなら雨が降る時期なのに一滴も降らない」
「お父様たちも言ってたの。今年はなんだかおかしいって。神様が怒っているのかも」
 彼は仰ぐように天を見上げた。柔らかな栗色の髪の毛がつやつやと光っている。彼の瞳の中に陽が射しこんで、エメラルドよりも美しく光った。
「魚がとれなくても大丈夫よ。私、今日はパンと干しブドウを持ってきたの」
 一緒に食べましょう、と誘っても、彼はそれを口にしなかった。
「母さん、元気がないんだ。最近魚が獲れなかったから。これは母さんにあげることにするよ」
「そうだったの。今度はもっとたくさん持ってくるわ」
 彼はブドウを一粒だけ食べて、おいしいと言ってくれた。広い額から玉の汗が零れ落ちるのを、私はうっとりとして眺めた。

 更にひと月後、再び彼に会ったが、その時には完全に川は底が見えるようになっていた。
「今度、お父様は祈りの雨の儀式をするって」
「家畜も次々に亡くなっていると聞いたよ」
「うちにはまだ食料があるから大丈夫よ。これはお母様に。これはあなたが食べて」
 彼は見るからに痩せてしまっていた。しかし却って精悍さが増し、少しくぼんだ眼はより光って見えた。
「ありがとう」
「大変な時はいつでも話してちょうだい。だってあなたは……」
 将来の旦那様だもの、とは恥ずかしくて言えない。
「あなたは、とても美しいもの」
 彼はふっと微笑んで、私に触れるだけの口づけをした。私は驚いて、何も考えられなくなってしまった。
「ありがとう、君は優しくて美しい。黒い目も、波打つ黒髪も、僕がいままで目にしてきたどんな人よりもきれいだ。一目惚れだった」
 私も、と口から出そうだった。けれど彼があまり悲し気に告白を口にしたので、高鳴る気持ちのままそれを口にすることが憚られ、口をつぐんだ。早く、父親に彼を婚約者に決めてもらおう。それから、実は自分もだったのだと打ち明けるのだ。彼はびっくりしながらも、喜んでくれるだろう。


 しかしそれから何度川辺を訪れても、彼の姿はなかった。干ばつはますますひどく、私の家の食物も寂しくなった。
 雨を乞う儀式の日取りが決まった。
 モレク神に供物と生贄を奉げるこの儀式を、私が見るのは初めてだった。

「お母様、なぜエリシャがいるの?」
「エリシャ? あれは祈りの雨の人身御供よ」

 私がどんなに泣き叫んでも、父に請うても、エリシャが生贄であることは変わらなかった。
 あんなにやさしかった父は、縋る私を部下に任せて引き剥がし、冷たい食物庫に閉じ込めた。
「お父様、彼を私の旦那様にしてください」
「あれの母親は罪人だ。大事な娘の側には置けない」
「罪人?」
「どこからか、私の妻のショールを盗んだのだ。それに、お前にはもう婚約者を決めてある」
 婚約者の名前を聞いて、私は絶望した。それは十五歳、年の離れた従兄弟だった。
 外で鐘や太鼓を打ち鳴らす音が聞こえた。雨は、まだ降らないのか。
 私は叫びすぎて切れた喉を潰しながら、暗く埃臭い倉庫で雨を願った。今雨が降れば、彼の身を燃やす火を消してくれるはずだった。
 ざあざあと、耳の奥で雨音がする。
 けれど儀式の音楽は鳴りやまない。誰かの叫び声がする。それが自分の声かも、もうわからない。雨はまだなのか。
 祈りの雨は、ついに降らなかった。






「さっきから外ばかり見て、どうしたんだ?」
 窓辺に立つ私を、彼は後ろから包み込んだ。ホテルの窓からは、人工的に植えられた木々と、その奥に広がる死海が眺められる。
「雨、降らないかしら」
「雨季は去ったばかりだって、ガイドは言ってたよ」
 彼は、私が雨を心配したのだと思ったらしい。
「まさか新婚旅行でイスラエルを所望されるとは」
 彼が喉の奥で笑うのが、腕の中の私の体にも伝わる。私は少し身を捩って、彼の顔を見上げた。
 青い死海と木々の緑が、彼の瞳に反射していた。
「せっかくトルコに行くなら、と思ったの」
「不思議だな。なんだか初めて来た気がしない」
 私も、と言いかけて止める。言葉を喉の奥に留め置くのすら、初めての気がしなかった。
「私、あなたに一目惚れしたのよ」
「どうしたんだよ、急に」
「わからないけど、今、伝えたかったの」
 彼は照れくさそうに笑って、「僕もだ」と私にキスをした。
 長い口づけが終わる頃、ふいに雨音が聞こえ、二人で外を見る。
 遠くから、雨の柱が近づいてくるのが見えた。雨季は終わった筈だと、彼は言わなかった。
 ぼんやりと二人窓辺に立ち尽くしながら、雨が来るのを待っていた。どうしてだろう、何かを確かめるような気持ちで、しっかりと手を繋いでいた。
 長い旅をようやく終えて、今雨を待つ。




〈了〉


青ブラ文学部さんの企画に参加させていただきました。いつもありがとうございます。

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