ウォーリー山口と学生プロレス②
「前田日明と長州力って、なんであんなことになったかわかるか?」
答えに窮しているぼくを見て、山口さんは続けた。
「北緯38度線!」
「・・・うそでしょ?そんなことってあるんですか?」
「それがでたらめとも言いきれないんだよ。あの二国間は俺たちが想像できないぐらい中が悪いし、プロレス業界には絶対ってのがないからな。」
この「プロレスに絶対はない」という言葉を、山口さんはよく口にしていた。
またある日は、マニアックスを出ようとしたところに山口さんが来て、「帰るのか、そこまで一緒に行こう!」
と西馬込の駅に一緒に向かった。
「今日はどこに行くんですか?」
「全日の後楽園」
「なにかいいカードありましたっけ?」
「ブルドッグス対マレンコ兄弟!これはいいぞ!」
「いい試合になりそうですか?」
「わかんない、この業界、絶対はないからな」
そういいながら、うれしそうに語る山口さんの期待通り、この日の試合は歴史に残る一戦となった。
「俺の夢はな、日テレとテレビ朝日から安くプロレスの映像を借りて、ここ(マニアックスの地下)を放送局にして、24時間プロレスの試合をケーブルネットで全国に流すことなんだ。」
当時としては斬新すぎるアイデアだったが、のちに山口さんは格闘チャンプフォーラムという番組を手掛けることになった。
CS放送が開始されると格闘技専門チャンネルSAMURAI TVが開局し、現在は様々なプロレスがサブスクなどでいつでも見られる時代になったことからわかるように、山口さんの感覚は一歩も二歩も時代の先を行っていたのだ。
ぼくたち学生プロレス軍団と時を同じくして、マニアックスに出入りしていたのが、たけしプロレス軍団=TPGだ。
現在の邪道、外道、スペル・デルフィン3選手に加え、後半にはまだ高校生だった、ジ・ウインガー選手もマニアックスのリングを使って練習していた。
当時日本には先にあげた5団体以外に、リングを所有しているところがなかったため、長与千種との対戦実現に向けて一時ジャパン女子から身を引き、浪人状態だった頃の神取しのぶや、北尾光司の公開練習もマニアックスで行われるなど、フリーのプロが利用することもあり、アブドーラ・ザ・ブッチャーが学生の練習を見て、ぼくの同期にモンキーフリップを教えてくれたこともあった。
このころぼくたちは、洗足池の体育館で山口さんが主宰するPWAという団体の興行に協力し試合にも出場、TPGの3人もここで試合をしている。
その延長で88年9月に学生プロレスとTPGは名古屋に遠征。山口さんのブッキングにより、現地のNWAというアマチュアプロレスの団体と3団体合同興行を行った。
その中で、NWAの代表ジャック・ジュン=現在のウルトラマン・ロビン、TPGの3人と、学生プロレスのテイオー選手、ぼくの6人がのちにプロレスラーとなっていることを考えると、見方によってはパイオニア戦士旗揚げの7か月前に、すでに日本プロレスインディー史がスタートしていた、ともいえるのだった。
「小林、見てみろ!あそこで世界一、うさん臭い会議をやってるぞ!」
ジャパン女子プロレスの後楽園大会恒例だった学生プロレス軍団の応援隊(サクラ)として北側ひな壇席に座っていた時、一緒にいた先輩に言われ、リングサイド席を見ると、山口さんが新間寿氏と何やら話し込んでいるところだった。
更にその会場で小さな出来事があった。
「レフェリー、ジャック・ジュン!」
リングアナの山本さんがコールした名前は、つい先日名古屋で耳にした名前だ。
リング上でボーダーのレフェリーシャツを着て、試合開始のゴングを要請したのはまさにジャック・ジュン本人だ。彼はプロレスラーになるべく山口さんとコンタクトを取るなど、独自に東京に進出していたのだ。
この88年には、ジャパン女子に営業社員として大仁田厚が入社しており、毎後楽園大会にブレザー姿で来場していた。
この流れを読んだところで想像できると思うが、この時すでにプロレスインディーの歴史が、水面下で動き出していたことになる。
ちなみに12月3日ジャパン女子後楽園大会では、新間寿の格闘技連盟が始動し、メインで大仁田厚VSグラン浜田が行われた。
この試合、ぼくの記憶違いでなければ山口さんがレフェリーとしてリングに上がり、カウントの取り方がアメリカ式で、やたら早かった覚えがある。
翌89年3月に山口さんは、前年来日し、UWFのリングで前田日明と対戦したジェラルド・ゴルドーの招待を受け、TPGの選手を連れて試合を行うためオランダへ出発。
TPGの3人は試合を終えると現地で山口さんと別れ、すぐに日本に帰国し、いつものようにマニアックスで練習を始めた。
しばらくヨーロッパを回っていた山口さんが帰ってきたのは、4月の終わりごろだった。
ゴールデンウィーク中、ぼくたちは代々木体育館で行われていた国際スポーツフェアで毎日試合を行っていた。
そこに山口さんは、奥さんとともに差し入れのお弁当と、おみやげのTシャツを持って突然現れたのだが、ここから山口さんは本格的にインディペンデント始動に向け動き出すと同時に、ぼくたち学プロはその影響で状況の変化を求められることになるのだ。
間もなくして休業状態だったマニアックスの場所を、山口さんは大仁田厚に貸し出し、FMWの事務所となった。
地下にはリングもあるし、TPGという若手レスラーもいる。ここは旗揚げを控えたインディー団体にとって、事務所兼練習場としてうってつけだったのだ。
つづく