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ウォーリー山口と学生プロレス③(終)
89年7月1日に格闘技の祭典で行われた、大仁田厚と青柳政司の異種格闘技戦は、まだメジャー団体しか存在しなかったマット界に強烈なインパクトを与えた試合となった。
この一戦に学生から大仁田サイドのセコンドを数名出してほしい、と山口さんを通じ要請があった。
しかし当時の学プロ代表はこれを危険とみなし、断っている。
結果はご存じの通り、空手側のセコンドがエキサイトし、大乱闘に発展。
TPGの3人は無傷でセコンドをやり遂げたが、ジャック・ジュンは結構派手にやられたと聞いた。
もしあの時、代表が判断を誤っていたら我々学生プロレスラーは、ちょっとしたケガ程度ではすまされなかっただろう。
この一件でぼくは学生プロレスとは、あくまでも大学生のサークル活動だということを再確認するにいたった。
ただし個別でオファーを受けた学生プロレスOBが一人、この世紀の一戦にレフェリーという大役でリングに上がっている。
しかも事前に詳細を説明されなかったため、1ラウンドごとに提出する10点減点法の点数(例:10対8)を6対4と記入するという、もし判定にもつれ込んでいたら命とりになるようなミスを犯しているが、これは笑い話としてその後も学生の間で語り継がれた。
ある大学の学際後、マニアックスにリングを搬入し設置をしていた時のこと、二階の事務所から大仁田選手の怒声が響き渡り、直後に外道選手が階段を転がり落ちてきたことがあった。
数年たってから外道選手にこの件を聞くと、「たまんねえよなあ、大仁田さんが「あいつら(学生)おれたちのことをなめてるから、ちょっとビビらせてやろう」っていきなり俺のことを怒鳴りつけて喰らわされてさ、階段から叩き落されたんだよ。」
と、学生に対する脅しは確かに効果はあったが、結果的にぼくたち学生は大仁田厚をどんどん冷めた目で見ることとなり、マニアックスから距離を取ることを考えざるをえなくなった。
そして外道さんも、上記のような理不尽な扱いに対する不満がつもり、FMW旗揚げ前にマニアックスから姿を消すのだった。
時を同じくしてまた一つ事件が起こった。
その週発売されたプロレス専門誌に、パイオニア戦士が浦安で行ったイベントのレポートが掲載されていた。
よくよく目を凝らすと剛竜馬が立っているのは、ぼくたちのリングだったのだ。
山口さんと学生の間には、リングを使用、持ち出しする際に、事前に双方で確認を行うという決まりがあったのだが、この件はぼくたちには連絡がなかった。
これでFMWが旗揚げしようものなら、本当にリングは向こうに占拠されてしまうだろう。そうでなくても、あくまで学生用のリングとして作ったので体格のいいプロのレスラーが使うと、ワイヤーが切れたり板が割れるなど、様々な問題が起こると予想された。
誤解がないように言っておくと、リング購入に際してプロレス業界の方々や、学生プロレスOBから出資してもらったお金は、この時点で学生プロレスの興行収入ですでに完済している。
リング搬送用のトラック購入を決めていたぼくたちは、リングをマニアックスから持ち出すことを決めた。
ちなみにこのトラックは、今から20数年前に盗まれてしまい、テレビやYAHOOニュースでも取り上げられ、ちょっとした話題になった。
FMW旗揚げ2戦目として行われた、10月10日の後楽園大会。
その日使われたリングは、大阪栗栖ジムのものを借りたようだ。
そこに山口さんの姿はなかった。
ぼくたちがマニアックスを去ってから、FMW旗揚げまでの2か月の間に何があったか詳細はわからない。
年が明けるとユニバーサルプロレス連盟が発足し、グラン浜田、浅井嘉浩とともに外道選手を含めたTPGの3人も記者会見に出席。
そして旗揚げ戦で山口さんはレフェリーとして登場。
このあと山口さんは多くのインディペンデント団体でレフェリーを務め、マネージャーとしてWWEにも進出。大量離脱後の全日本プロレスのヘルプにも回った。
そして日本のプロレスインディー団体は、先に山口さんが言っていた通り増え続け、その正確な数は誰にも把握できないものとなった。
ユニバーサルの会場へ頻繁に行っていたぼくは、また山口さんと顔を合わせるようになり、卒業旅行でぼくがメキシコに行く際には、浅井選手に「今度弟子がメキシコに遊びに行くからよろしくな」と伝えてくれたこともあった。
そんな山口さんは、19年3月9日、帰らぬ人となった。
おそらく学生時代に山口さんに会っていなければ、ぼくはまったく違った人生を歩んでいたと思う。
それぐらい山口さんという身近なプロレス関係者の存在は大きく、知らず知らずのうちに影響を受けていた。
マニアックスに設置された黄色いリング。
この色を決めたのは山口さんだ。
「いろんなとこでプロレス見てきたけど、黄色いリングは見たことがないんだよ」
というのが理由だったが、実はメキシコに行ったら意外と黄色いリングがあり、そのたびに山口さんを思い出すのだった。
「おれはもともと風来坊な性格で、一か所にじっとしていられないんだよ。」
常に時代の先を行っていた山口さんは、本来であれば日本にインディーを誕生させたキーパーソンの一人として、プロレス史に大きく名前が残っていてもよさそうなものだが、こういった性格だからだろうか、その功績は意外と知られていないように思われる。
レフェリーやマネージャーなど、登場人物としてのイメージばかりが先行してしまっているのが残念だ。
これを読んで今までみなさんが知らなかった山口さんの一面を知っていただければ、と思う。
そして最後に、89年に新日本に参戦したレッドブル軍団のビクトル・ザンギエフのオーバーなプロレス的リアクションについて。
これってソ連に長期取材に行った山口さんが、新日勢が帰国したあと一人現地に残留した時に教えたんじゃないか、とひそかに思っているのですが・・・思い過ごしでしょうか?