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2023年4月5日 87歳 没

正憲(はた まさのり、1935年昭和10年〉4月17日 - 2023年令和5年〉4月5日)は、日本小説家エッセイストナチュラリスト動物研究家、プロ雀士

愛称は「ムツゴロウさん」。日本エッセイスト・クラブ賞1968年第16回)、菊池寛賞1977年第25回)受賞、日本プロ麻雀連盟最高顧問であり初代十段位(畑が強すぎたため畑を位付けするために創設された)、最高位戦創案者。

概要

畑は1935年(昭和10年)福岡県福岡市で生まれ[3]東京大学理学部動物学を学んだ後、株式会社学研に入社して教育用の科学映画の作成に関わる。その後、動物関連のエッセーなどで作家としてデビュー。あだ名であるムツゴロウを冠したシリーズや小説を著した。

1971年に動物との共棲を目指して北海道に移住。後にこれが「ムツゴロウの動物王国」へと発展する。動物に造詣の深いキャラクターとしてテレビの動物番組に登場した。麻雀など、他の趣味に関わってのテレビ出演もある。テレビ番組の規制が厳しくなった現状を例に挙げて「海外の国でハトや子羊を殺して食べている。そうした動物をつぶすシーンを報じるか?。でもそれは社会の営みの一部。成り立ちそのもの、すなわち多様性をどう受け止め、感じるかという問題。一部の問題だけをクローズアップしていると、全体を見誤ることになる。僕は行き過ぎた規制や、そうした動きを民主主義の風化と言っているが、政治に留まらず社会全体がそうした風潮になってきているように思う」と答えている。

ムツゴロウ王国

出典検索?: "畑正憲" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年10月)

中学校時代に出会った同級生の女性と結婚し、娘をもうける。娘を生物に深く触れさせて育てたところ、魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて、表面的な生き物好きの精神の虚弱さを払拭させて育てることを決意した。畑自身ヴィーガニズムはキッパリと否定していた。

1971年、東京を離れ、北海道厚岸郡浜中町嶮暮帰島に移住。さらに対岸の本土地区に移り、1972年に「ムツゴロウ動物王国」を開園。1979年には標津郡中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園。ここで多くの動物を飼育しながら文筆生活を送るうちにヒグマとの生活を描いたエッセイや、天然記念物に指定された動物の保全の現状を追跡したルポなどで文壇での成功をおさめる。

その後、彼のエッセイに共鳴して、この共同生活に加わる若者が増えた。この共同体の姿が、1980年12月からテレビ番組ムツゴロウとゆかいな仲間たち」としてシリーズ放映されて、80年代には大きなブームとなって子供達の人気番組となり、ムツゴロウの名前は全国規模で周知されるようになった。

この間にも自然保護運動に奔走していた。増田俊也の『七帝柔道記』には、畑が1987年の知床原生林伐採問題時に急先鋒に立って反対運動に参加していた場面が実名で出てくる。

1年のうち、ムツゴロウ王国に滞在する期間はあまり長くなく、それ以外は各地で講演などをしている。

東京ムツゴロウ動物王国

「ムツゴロウ動物王国」は原則非公開だったため、北海道で培ったノウハウを生かし、「都会の人々に動物にふれあってもらう」というコンセプトで、2004年7月28日東京都あきる野市東京サマーランド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園。北海道には一部のスタッフや動物が残留するのみとなった。

東京ムツゴロウ動物王国は集客が伸びず、2006年10月14日、「ムツゴロウ動物王国」の運営会社だったグローカル21が破綻し、負債総額8億円に上ることが明らかとなった。その後運営主体を畑正憲のプロダクション「ムツプロ」に暫定的に移すも、2007年10月17日、東京都あきる野市の「東京ムツゴロウ動物王国」が2007年11月25日で閉園、活動発祥の地である北海道へ戻ることが発表された。

東京ムツゴロウ動物王国の運営資金を個人保証で借り入れていた関係から、個人としても約3億円の借金を背負ったが、執筆・講演活動などの収入で約8年間かけて借金を完済した。

晩年

2017年10月に心筋梗塞を発症し入院、手術を経て入退院を繰り返した後、自宅療養を続けてきた。その一方でYouTubeなどで北海道での生活を発信してきた。

死の一週間前から容態が急変、2023年4月5日に中標津町の自宅で心筋梗塞を発症し倒れ、午後5時53分に搬送先の病院で死去した。87歳没。








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