見出し画像

$撃墜王 岩本徹三

$撃墜王 岩本徹三

$敵202機を撃墜した実力、背中には「天下の浪人 零戦虎徹」と書かれたライフジャッケット、丸刈り命令を拒否しての長髪――最強の撃墜王と呼ばれた日本海軍戦闘機隊エース・岩本徹三だ。
ちなみにエースとは一般に50機以上を撃墜した者に与えられる称号。しかし、岩本の撃墜数は202とこの数字から見ても岩本の実力は群を抜いているのが分かるだろう。もし、かの剣豪・宮本武蔵が剣を戦闘機に変えて岩本と戦った場合、遠く敵わないとも言われている。そんな岩本の強さの秘密とは…。


 オーストラリアの北、ニューギニアの東に位置するニューブリテン島ラバウル。太平洋戦争中、連合軍は「竜の顎」と呼び、恐れた。竜に似た地形と岩本率いる日本海軍最強「ラバウル」航空隊が待ち構えていたからだ。
当時、物量で勝る米軍は連日数百機の大編隊で来襲し、岩本らは性能で敵に劣る零戦30機程度で応戦していた。人員の交代も機材の補給もままならない過酷な日々で、岩本らを支えたものは、空に散っていった戦友たちが残した「敵機は俺たちが落とすのだ」というラバウル魂。
岩本は「ラバウル航空隊の誇りに懸けてたとえ戦況が絶望的になろうとも敵の戦闘機にだけは負けてはならない」と心に誓っていた。

 戦局が悪化した太平洋戦争末期、岩本にも特攻の命令が下される。しかし、「我々戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落とすのが任務じゃないのか。一回きりの命中で死んでたまるか」と口に出して特攻に反対。
「戦闘機パイロット」という職分に反した作戦を実行することは、岩本のこれまで築き上げてきた歴戦のエースとしてのプライドが許さなかった。

 自らの技量に対する絶対的な自信と誇りが岩本の心の中にあった。自分を信じ抜くことができる勇気を持っていた。
呉市海事歴史科学館館長の戸髙一成氏は「自分のすべてを賭けて戦うものを見出し、懸命にその道を歩む中で確固たる自信と誇りを抱いた時、人間は本当の強さを発揮することができる」と岩本の生き方から学びとった。

 現代の私たちはどうだろう。自分のすべてを賭けられるものに出会えているだろうか。その中で懸命に努力し、自信と誇りを抱いたことがあるだろうか。おそらくこんな経験ないだろう。
(上記記事は、このサイトより引用・編集



$零戦撃墜王―空戦八年の記録

(光人社NF文庫)
文庫 
岩本 徹三 (著)

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

撃墜機数二〇二機、うちラバウル上空の戦果一四二機―初陣の中国大陸から、真珠湾、ソロモン、比島、本土と、常に最前線の空戦場裡で死闘を繰りひろげ、みごとに勝ち抜いてきた空の勇者が書き遺した感動の空戦記録。日本海軍航空隊のトップ・エースとして活躍した第二次大戦撃墜王が描く勝利と鎮魂の青春譜。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

岩本/徹三
大正6年、樺太に生まれる。昭和9年、呉海兵団に入団、11年4月、第34期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。13年3月、第12航空隊付、5月、三等航空兵曹。16年10月、空母「瑞鶴」乗組、11月、ハワイに向け大分沖を出港。17年4月、インド洋作戦、5月、サンゴ海海戦に参加。6月、北方作戦でアリューシャンに向け大湊を出港。8月より大村航空隊、横須賀航空隊などで教員勤務につく。18年11月、ソロモン方面に転出、ラバウル204航空隊付。19年2月、トラック、木更津、岩国、国分基地と転戦す。岩国203航空隊で終戦を迎える。海軍中尉。昭和30年5月、歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

$岩本 徹三
いわもと てつぞう

渾名最強の零戦パイロット、零戦虎徹、零戦撃墜王
生誕1916年6月14日
樺太庁死没1955年5月20日(38歳没)所属組織

大日本帝国海軍
軍歴1934-1945
最終階級海軍中尉




いいなと思ったら応援しよう!