淀川長治最後の日曜洋画劇場解説



淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり[2]、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。

淀川 長治

学習研究社『暮らしの知恵』第1巻第4号より

誕生1909年明治42年)4月10日
兵庫県神戸市死没1998年11月11日(89歳没)

東京都文京区本郷[1](東京大学医学部附属病院)職業映画評論家・雑誌編集者国籍

日本活動期間1927年 - 1998年ジャンル映画評論主な受賞歴第10回キネマ旬報読者賞第4回川喜多賞日本映画ペン倶楽部賞朝日賞第36回ゴールデン・アロー賞特別賞パートナー独身(未婚)親族淀川又七(父)りゅう(母)淀川美代子(編集者、姪)公式サイトプロフィール

1996年(平成8年)に『男と男のいる映画』で、「子どもの頃から男が好きだった」と同性愛者であったことを告白している。1990年(平成2年)の著書『銀幕より愛をこめて』でも、若かりし頃、映画館で少年が中年男性の懐に手を入れて捕まり、騒ぎになった出来事を目撃したことを記し「あのときは財布の窃盗だと騒ぎになって少年は捕まったが、私はそのころからそのケがあったのでわかっていた。あの少年は窃盗をしようとしたのではなかったことを」とも書いている。

  • 特に太った男性が好みで(肥満嗜好)、『トプカピ』や『スパルタカス』で知られるイギリス俳優のピーター・ユスティノフや『スーパーマン』のネッド・ビーティなど太めの俳優が大のお気に入りであった。

  • マーティン・シャーマンの同性愛が主題となった戯曲『BENT』について「私はこれまでに映画や芝居でどれだけのラブ・シーンを見てきたかは数えきれないが、『BENT』のラブ・シーンくらい痛ましく悲しく美しく強烈なラヴ・シーンに接したことはなかった」と言ったコメントも残している。アーノルド・シュワルツェネッガーが来日した際に長寿の秘訣を聞かれた際にも「わかりました。じゃあ、お風呂で話しましょう」とコメントしている。1991年(平成3年)に『ターミネーター』が放送されたときの解説では冒頭から全裸で登場するシュワルツェネッガーの尻について、褒め讃えている。

  • アラン・ドロン主演のフランス映画『太陽がいっぱい』について、「主人公と、彼に殺害される友人はホモセクシャルな関係にあり、そのことがわからないとこの映画の魅力はつかめない」と終始主張したが、あまり賛同者はいなかった[5]。上述の「さよならの会」に際して、ドロンは淀川宛に弔電を送っている。

  • 女性のインタビュアーを非常に嫌っていた。

  • 日曜洋画劇場のギャラは、収録ごとに日払い(取っ払い)で受け取っていた。テレビ朝日に出演する他の解説者やタレントが月ごとの振り込みに切り替わっても、淀川だけは特例としてその日払いが続けられており、本人はこれをひそかな自慢としていた。

  • かつては横浜市鶴見区の自宅に住んでいたが、体調を崩したのをきっかけに、1987年(昭和62年)から亡くなるまでの11年間は、日曜洋画劇場の収録を行っていたテレビ朝日アーク放送センターと同じアークヒルズ内にある東京全日空ホテル34階のスイートルームで暮らしていた。独身で家族のいない一人暮らしには、ホテル住まいが何より便利で快適だからというのが転居の理由で、転居するホテルの部屋を決めるに当たっては、自身がホテルで死ぬことを最初から想定して「棺桶がちゃんと入るかどうか、エレベーターの大きさを調べて決めた」と『徹子の部屋』で明言していた。スイートルームの広い部屋の中は、映画に関する書籍や資料で埋め尽くされていたという。また、実弟の敏治の下宿の近くだったことから、ときおり「不思議だね、弟が暮らしていた東京の下宿も、このホテルの近くなんだ。そこで暮らすことになるなんてね」と漏らすこともあったという。

  • 最晩年にそのホテルを黒澤明が訪ねたことがあった。二人は映画の話はせず、食事の話などで盛り上がったという。「二人とも映画はもう身に染みているからね。改めてそんな話題にはならなかったよ」と淀川本人は語っていた。

  • 晩年の淀川は、映画だけではなく歌舞伎の美に感動し、文楽の世界に酔い、バレエの著作も出している[11]。また、宝塚歌劇団のオールドファンでもあった。大好物のステーキを味わい、温泉旅行を楽しみながら、新作映画を1本でも多く観ることが長寿の薬だった。生涯最期の言葉は病床で姪の美代子に語りかけた「もっと映画を見なさい」であった。

  • 名作映画は、人類にとって最高の総合芸術である」との言葉を残している。

  • どの映画にも見所はある」が持論で、どんなB級映画でも決して悪口を言わず、「このセリフ回しが素晴らしい」「女性の脚の組み方がいい」など、一般人は見過ごしそうな箇所を見つけては褒めていた。小田和正は自著『Time Can't Wait』で淀川のこのような姿勢を高く評価している。俳優の児玉清は『土曜洋画劇場』の解説を務めた際、ある放送で取り上げた四流映画を正直に酷評したところ、監修の淀川から「解説者がひどい映画と言ってしまってはいけない。それは見る人に対しても失礼だし、作った人に対しても失礼だ。必ず褒めなさい。よいところが必ずどこかあるはずだから、必ず褒めて視聴者に勧めなさい。だから撮り直しなさい」といわれ撮り直すことになった。児玉は、淀川は「映画を必ず褒める」ことで「心の中でけじめをつけていらした」と著書に書いている[12]

  • 『日曜洋画劇場』での物腰が柔らかい姿とは対照的に、こと評論においては非常に舌鋒鋭く映画に踏み込んでいた。何度か対談したことがあるビートたけしによると、「こうすれば売れるだろう」といういい加減な計算の作品をすぐに見抜き、酷評していたと言う。

  • 著書『男と男のいる映画』において「男しか出ていない映画に駄作無し」と格言を残している。

  • 1992年(平成4年)から雑誌「ROADSHOW」(集英社)主催で、映画文化の発展に功績のあった人・団体に贈られる賞「淀川長治賞」が創設される。第1回は字幕翻訳家の戸田奈津子が受賞した。賞は淀川の死後も続いている。

  • 日本におけるアーノルド・シュワルツェネッガーの愛称「シュワちゃん」は、淀川が命名したもの。

  • 日曜洋画劇場」は基本的に洋画を放送する番組だが、編成などの都合で「特別企画」と銘打ち邦画が放送される場合もある。その場合、淀川は「こういうこと(邦画の放送)を了承すると、(映画会社との関係などで)どんどんなし崩しに(邦画ばかり放送するように)なっていくから[注釈 11]」と邦画解説を担当せず、筋を通した。しかし、例外的に『戦場のメリークリスマス』と『』と『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』の3作品は解説を行った。特に『夢』は親友でもある黒澤明の追悼放送であり、喪服を着て解説に臨んだ[注釈 12]。ただしヨーロッパを舞台とした『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』以外の2本は日本を含めた各国の合作映画であるため、一種の洋画とも取れる。

  • 淀川が若かりし頃、ある所へ講演に行った際、会場の出口で出待ちをしていたファン達と握手を交わした後、車に乗ろうと歩いていたら列の最後尾に居た一人の少年が「握手して下さい」と左手を差し出してきた。西洋では、左手で握手を求めることは決闘の申し込みを意味するとされ、非常に失礼な行為とされているため、腹を立てた淀川は「君、握手は右手でするもんだよ。左手で握手を求めることほど失礼なことは無い!」と言い放ち、少年と握手することなく自動車に乗り込んだ。しかし、車を発進させた直後、ルームミラーに少年の寂しそうな表情と、右腕が無い様子が目に入った途端、すぐに車を止めさせた。大慌てで車から飛び降りて少年のもとに駆け寄った淀川は、泣きながら自分の非礼を詫び、驚いた少年もその場で泣きだした。少年は、不慮の事故で右手を失ったことと、講演が聴けなかったので、せめて握手だけでもしたいと思い、淀川と握手がしやすいよう、列の最後尾にいたことを、淀川に語った。淀川は次の講演会の予定をキャンセルして、その少年と長い時間語らいを続けた。この日、事情を確かめようともせず、障害者の少年を罵倒してしまった自分の不甲斐なさを、淀川は晩年まで後悔し続けていたという。

  • 関西弁をそれほど表に出すことはなかったが、「あの映画も、ええでしたなあ(良かったですねえ)」のように不思議な淀川口調の中に垣間見せることはあった。

  • 若い頃に雑誌投稿したのが掲載された時に隣に詩人の金子みすゞの投稿も一緒に掲載された。これは金子みすゞ記念館で一般公開されている。


https://ameblo.jp/808something2love/


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