第一 事実とされているイギリスの3枚舌外交⑷ファイサルヴァイツマン(国際)宣言についてⅲ
ⅲ サイクスピコ密約との齟齬
フサインマクマホン密約とサイクスピコ密約との齟齬については,すでに述べたように,フサインマクマホン密約において「ダマスカス・ホムス・ハマ・アレッポを結ぶシリアの諸州」について,イギリスの管理区域だからフランスに気兼ねせずアラブ人建国地として許容できるとしている先約が,後約によって「フランス管理区域だからフランスに気兼ねせねばアラブ人建国地に成り得ない」というところである。
ファイサルヴァイツマン合意とサイクスピコ密約の齟齬となると,イギリスの解釈としては,「結果としてアラブ人建国地に成れば良いので,フランスにそれを許容するように求めて行く」ということになる。
サイクスピコ密約に準じたフランスの駐留につてのファイサルの解釈としては,「フランスは信じられないので,フランスを追い出してイギリスが駐留管理するように」という要求となる。
国際シオニスト会議の対サイクスピコ密約に対する立場は,「ファイサルが納得しなければならない」わけだから,当事者両陣営は,フランスが旧オスマン帝国領より,シリア方面においてフランスに管理権限が生ずることが認められないということになる。
この部分は,サイクスピコ密約のうち,本当に密約・陰謀されていた事柄としての評価を下す必要があると思われる。
(これが本旨であるが,サイクスピコ密約捏造の部位の説明があるので少々寄り道する。)
WW1におけるオスマン帝国からトルコ共和国建国にかけての,トルコ国体と連合国との和平協定は,
1918/10/30ムドロス休戦協定
1920/8/10セーブル条約
1923/7/24ローザンヌ条約
こういった経緯を辿る。
オスマン家は,基本的にカトリック系ハプスブルグ家や東方正教系のロマノフ家をその歴史上の仮想敵国として歴史を重ねており,ハプスブルグ家ロマノフ家に対し「敵の敵」という3段論法的解釈だが,イギリス政府と対立関係には無かった。
オスマン帝国がイギリス政府と対立関係に陥るのは,青年トルコという社会民主主義革命勢力が,1908年の政変によって政権を奪取してのちで,青年トルコはオスマン家のカリフとしての存在は認めたものの,立憲君主制としての共和体制を確立して,普仏戦争勝利の後,急速に立憲君主制としての影響力を拡大するドイツ第二帝国と接近し,積年の仮想敵国オーストリアとも関係を改善して中央同盟という軍事同盟の締結に成功する。
我々日本人は,オスマン帝国ではなく「オスマントルコ」という呼び名を修学時代に教授されているはずだが,この「オスマントルコ」とは,WW1時代・青年トルコによる政権時代のトルコの呼称であり,今,日本の文科省が「オスマントルコ」という名前を消し去って,「オスマン帝国」との修学呼称変更への誘導を行うこととは,現パレスチナ問題を解く上で,青年トルコこそが,フサインマクマホン密約の標的であった事実から,青年トルコを消し去る趣があるのではないかと筆者は疑っている。
※ タイトル画像 青年トルコによる実質社会民主化されたオスマントルコ
日本にも「民主青年同盟」という共産党系の政治結社が存在するわけだが,この「青年」と冠する政治思想とは,ジュゼッペ:マッツィーニという思想家が設立した「青年ヨーロッパ」という全世界革命思想に基づく活動を指している。
青年トルコは,イタリアにおける青年イタリア活動がマッツィーニの直系であったこととは異なり,立憲化を求めての政変という類似性によって「青年」と使っただけだが,ここに寄り道する理由とは,前項で「現パレスチナ人の正体①」として,イスラエル・パレスチナにおけるオスマン帝国イェニチェリの名を挙げたわけだが,その具体的な政治組織として,青年トルコの構成員がこれに当たる可能性を感じているからである。
これは,イギリスの3枚舌外交の実態についての考察をひとまとめした後,第二として,【消えたヒジャーズの国民/現パレスチナ人の正体】として,パレスチナ問題の本質を考える上で引用するので,ひとまず最初に登場するこの時点で説明したものである。
少々長くなったが,前出,
1918/10/30 ❶ ムドロス休戦協定
1920/8/10 ❷ セーブル条約
1923/7/24 ❸ ローザンヌ条約
このうち,❶❷は青年トルコが締結したもの,
❸は,現在トルコの建国の雄とされる『ムスタファ:ケマル』という人物が締結したもので,旧オスマントルコが,本旨シリア以外にも,現共和国トルコとしても分割脅威にさらされるなか,それを推進する降伏派・青年トルコから政権を奪取し,救国の英雄として帝国崩壊後は大統領に就いて,トルコ共和国を民族主義と世俗主義を掲げることで新国家を立ち上げ,アタテュルク(父なるトルコ人)と今なお国民から敬愛される人物である。
「青年」と発する組織とは,1922のコミンテルン綱領によって,日本にも設置された日本共産党の草の根運動を司る組織が民主青年同盟であったように,ロシア革命で建国されるソビエト・コミンテルンと,青年と発する組織の水面下での連携というのは,当時のコミンテルンの世界同時革命思想から十二分にあり得ることであり,その可能性を無視した歴史認識は,色々な意味で事実の誤認があると思われる。
ズバリ!
サイクスピコ密約とは,本当は【青年トルコが,フランスと締結していた停戦協定である】と看破する。
締結にはイギリスは関係なかった,が,イギリス政府はオスマントルコと最後まで消耗戦を展開することは避けようとしていたし,それはファイサルやヒジャーズ領民に取ってもおそらく過酷な戦争状態の継続を要求することとなるため,なんとか,フサインマクマホン密約での約束の地について,フランスに履行させるからという理由でファイサルに譲歩を求めたのだと,ここで停滞したくないので「とりあえず定義」する。
そしてファイサルは,その事実をおそらく告げられていたのだが,イギリス政府ロイド:ジョージ首相が「できる」ということに対し,「いいや!青年◯◯などが絶対に信用できるわけがない」と確信しており,フランス管理領の全面撤去・それにはイギリス軍の駐留による援助なく果たせないので,日米地位協定と何ら変わらぬ主権共有となろうとも,イギリス軍の駐留を強く要求したのだろう。
サイクスピコ+サゾーノフ合意などという密約は,
●コミンテルンがでっちあげたデマの疑いが濃厚なのだが,
●主要な事実関係として,
フランスの駐留管理区域は「その通り」なので,
●おそらく,青年トルコがフランスを窓口にした降伏条件であると思われ,
●このあたりは,
レーニンの常套戦術である「革命的祖国敗北主義」を全面的に踏襲していることが疑われる。
●しかし,ムスタファ:ケマルの革命でセーブル条約は踏み倒され,青年トルコという社会民主派が一掃されたことによって締結し直されたローザンヌ条約で一転,連合国はトルコに対しての優越権放棄だけでなく,シリアでのフランスの管理権まで徐々に縮小されることとなる。
フランス駐留のシリア領をトルコに返せではなく,それはフランス撤収後はシリア領で良いと,トルコが言うというのは,いくらなんでも不自然だろう。
WW1はドイツ降伏もそうなのだが,中央同盟側は戦術的にそれほど不利になっていない。
ドイツが戦っている戦場とは東がロシア国内・西はフランス国内で,オスマントルコが戦っているのは植民地のシリアからヨルダンにかけてであって,自国はまったく消耗していない,WW2の枢軸同盟側は日本・ドイツと木っ端微塵に国内を壊滅させられているので,WW1も同盟側がズタボロになったと思われ勝ちだが,WW1についてはまったく逆、苦しいのは英仏露の協商側の方,特に自国内が戦場になっている仏露だったのだ。
さて,とりあえず個別の英文分析はひとまず終わったので,
濫立させた事実関係を整理に入りたい。
これは次回,⑸ 【イギリスの3枚舌外交に関しての総括】にて。
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