親を看取るていうこと 実父編
前回は実母、今回は実父。
今回はちょっと悲しいというか😢、後悔しているお話しになります。
昭和4年生まれの母とは同級生。
父のアタックの結果、結婚したらしい。
木造船を1人で作る、いわゆる船大工だった。
皆に信頼され、身も軽く、家族思い。参観日や家庭訪問は父の役割だった。いわゆる育メンだ。
7年前に母が亡くなり、1年経った頃、肺がんが発覚した。
咳をすると胸が痛いと言うので、診てもらったら、転移したのか、肋骨が折れている。
近くにピンポン大の丸い影。癌告知。
船大工をしていた頃、グラスウールを頻回に使っていた。何の防御もなく。
癌の形が球体…吸い込んだかなー。
同居の姉がしばらく自宅で看ていたが、根を上げた。
いろいろ相談した結果、母と同じ看取りのホームに入ることになった。
父は認知も悪くなく、自分の状況も理解し、姉にも配慮したのだろう、すんなり受け入れてくれた。
今回の看取りの医師は男性だった。
5人の開業医が持ち回りするらしい。
入所して、1か月。食事が入りにくくなった。すると医師は鼠径部からの静脈栄養の話しをしてきた。
"お亡くなりになったとき、水分が入っていたほうがご遺体がきれいですよ。"
そう言った。ちょっとむかついた。
だが、姉は先生の言われるように、と承諾した。
処置中、部屋の中から、"もーやめてくれー。頼む〜"と懇願する父の声がなんども聞こえる。か細いが、しっかりとした口調だ。
私がキーパーソンならこの処置は絶対に避けた。
当時私と姉の関係は最悪だった。
私が看護師ゆえに客観的過ぎて姉には冷たく映ったのかもしれない。
いろいろな患者さんを見てきたから、今後どうなっていくか、何を考えなければならないのか感覚的に理解していたのが、災いした。
だから、何も言えなかった。
医師から解放されたのは2時間後。
"下手くそ!"ほんとうにそう思った。
その上にその医師は"抜かれると困りますから、ツナギ、買ってきてください。"と言った。
ツナギとは自分で脱ぎ着できない上下つながった衣類だ。まだ動けるのに、点滴で拘束してツナギまで!
船大工していた父の真意ではないと涙が出た。私がいたのに、こんなことさせてしまった。私がいたのに…。悲しくて情けなくて見ていられなかった。
父は日々衰弱していった。
ベッドに腰掛け、"お前には世話になった。みんなと仲良く。"それが父と会話した最期になった。父は私と姉の関係を理解していた!勘づいていた!
驚いた!思わず、父を抱きしめ、"大丈夫だから、ごめん、大丈夫だから…。"と泣き叫んでしまった。
それからしばらくして、夜中に電話がなった。呼吸が止まっていると。
駆けつけた時はまだ暖かかった。
仰向けで手を組んでいる。
誰がしたのか、周囲に聞くが誰も触っていないらしい。
父らしい覚悟の最期だった。
1人で逝ってしまった。
母の"おじいさん、もういいがね、こっちこらっしゃい。"と迎えに来たのかもしれない。
今でも "みんな仲良く" は遺言として守っているつもりだ。
お父さん、ありがとう。
また会おうねー。