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『ゆるしのススメ』− 学校で生徒が意見を言うことができない理由とは


ライター:じゃすみん


はじめに


 はじめまして、ミライエコールじゃすみんです。


今回は「ゆるし」についてゆったり書こうと思います。以前の記事でメンバーのたおさんが『たたかいのススメ』という記事を書いてくれました。「たたかい」と「ゆるし」は一見対立しているように思えます。なぜなら「たたかい」は特定の相手をゆるせないことを理由におこなわれることがあるからです。しかし僕は、実際には「たたかい」と「ゆるし」は対立するだけでなく、お互いに密接に関わり合っているのだと考えています。よって、『たたかいのススメ』とともに『ゆるしのススメ』という記事があってもいいのではないかと考え、執筆することに決めました。


 また、今回の僕の議論は僕の頭の中で練り上げられたものにすぎず、もしかしたら抽象論だとして切り捨てられてしまうかもしれませんが、おゆるしください。


「ゆるす」とは何か


 まず、「ゆるす」とは具体的にどういうことでしょうか。weblio辞書で「ゆるす」と入力して出てきた意味の一部を以下に示します。


①希望や要求などを聞き入れる


②相手がしたいようにさせる


③そうするだけの自由を認める


④過失や失敗などを責めないでおく


 ①〜③の意味をみると、そこには事前性が認められることがわかります。


つまり、何かをおこなう前に「ゆるす-ゆるされる関係」が存在するということです。たとえば僕が、『僕が書いたこの「ゆるし」に関する文章を読んでくれませんか』とあなたにお願いしたとき、あなたが『嫌です』と答えた場面を想定します。この場合、「あなたが文章を読む」というできごとの前に、「あなたが僕の要求を受け入れない(=ゆるさない) - 僕があなたに要求を受け入れられない(=ゆるされない)」という関係が成立しています。



 一方で④の意味をみると、そこには事後性が認められることがわかります。つまり、何かをおこなった後に「ゆるす-ゆるされる関係」が存在するということです。たとえば、僕があなたの大切にしていたペンを勝手にどこかへ売ってしまい、あなたが激怒して僕のことをゆるしてくれないとします。この場合、「僕があなたのペンを勝手に売った」というできごとの後に「あなたが僕のことをゆるさない - 僕があなたにゆるされない」という関係が成立します。



 ゆるす主体とゆるされる客体についても着目してみます。前述した例ではゆるす主体とゆるされる客体は他者と自分という関係でした。しかし、他にも「自分が自分自身をゆるす」ということもありえます。たとえば、あなたが一ヶ月分の給料をすべて使って洋服を買おうとするとき、「買ってはいけない」と思えば、それは自分の行動を自分自身がゆるさないということになります。


 以上から「ゆるす」とは、自分を視点にしたとき主に四つの分類ができると考えます。


①自分が他者の行為を事前にゆるす


②自分が他者の行為を事後にゆるす


③自分が自分の行為を事前にゆるす


④自分が自分の行為を事後にゆるす


よく考えれば当たり前に思われる分類ですが、これを軸に議論を進めていきます。


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なぜ生徒が学校で意見を言えないのか


  メンバーのたおさんが以前書いてくれた『たたかいのススメ』では、正しいたたかい方とその必要性について述べられていました。「たたかい」をできごととしたとき、先ほどの「ゆるし」の分類によれば、たたかう前と後の両方に「ゆるし」が存在することになります。そして、学校内で生徒が学校を改善しようとして誰かしらと衝突するとき、その前にも後にも「ゆるし」が存在すると僕は考えています。


 具体的に、「学校内で生徒が学校を改善しようと意見を言うこと」をできごとの例として考えてみようと思います。


 この場合、「たたかい」の前の「ゆるし」とはどのようなものでしょうか。「自分が自分の行為を事前にゆるす」という観点からみると、それは生徒が「自分は学校で意見を言っていいのだ」と自分自身をゆるすことにあたります。


 視点を変え、「他者が自分の行為を事前にゆるす」という観点からみると、それは先生や他の生徒、学校の制度、親が「その生徒は意見を言っていい」と生徒をゆるすことにあたります。前者は生徒自身の内的要因、後者は生徒のまわりの外的要因です。


 外的要因が完全に整備されたら、つまり、あらゆる生徒が意見を言うことのできるような環境をつくり出したら、すべての生徒が自分の意見を言うことができるようになるでしょうか。僕はそうは思いません。


 どんなに環境が整っていても、生徒自身がその環境を利用して意見を言っていいと意識的にあるいは無意識的に感じていなければ、つまり、生徒がその環境を利用する自分自身をゆるしていなければ、その環境は利用されないと思います。



 令和3年度に国立青少年教育振興機構が公表した『高校生の社会参加に関する意識調査報告書 − 日本・米国・中国・韓国の比較 − 』では、『日本の高校生は、学校の生徒による自治活動に「とても参加したい」「まあ参加したい」と 回答した割合が 40.2%で、中国の 79.5%、韓国の 72.0%、米国の 47.0%に比べて最も低い』ことがわかりました。一方で、『日本の高校生は、「学校の運営や今後の方針などについて、学校が生徒の意見を求める必要があるか」に対し、「ぜひ求めるべきだ」「まあ求めるべきだ」と回答した者の割合が9割を超え、米国に次いで高い』こともわかりました。生徒は学校側が自分たちの意見を求めるべきだと感じているのに、生徒自身が改善するために学校運営にたずさわりたいとは必ずしも思わない。このギャップは何によるものでしょうか。僕は内的要因、外的要因の双方がこのギャップを生みだしていると思います。


 


まず、内的要因について考えます。平成25年度に文部省が13歳〜29歳の日本の若者を対象におこなった『我が国と諸外国の若者の意識に関する調査』では、「自分自身に満足している」と感じる割合は45.8%、「自分には長所がある」と感じる割合は68.9%で、いずれも諸外国と比べてかなり低い数値でした。また、「諸外国と比べて、うまくいくかわからないことに対し意欲的に取り組むという意識が低く、つまらない、やる気が出ないと感じる若者が多い」こともわかりました(文科省『特集 今を生きる若者の意識〜国際比較からみえてくるもの〜』より)。


 自己肯定感が低いことと活動意欲が低いことは相関関係になっているとされています(1)。もちろんこれは因果関係を示すものではありませんが、自己肯定感が低いと、自分が積極的に意見を言ったり広い世界をみたりすることに抵抗が生まれ活動意欲は低くなるでしょう。


 そして、学校側に意見を聞いてほしいと思っているのに自分では活動できない要因のひとつは、この自己肯定感の低さにあると僕は考えています。つまり、自己肯定感の低さにより、生徒が意見を言うというできごとを、生徒自身に対して事前にゆるさないということです。



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 次に外的要因について考えます。先ほどの国立青少年教育振興機構の調査によれば、学校での参加の権利が「とても保障されている」「まあ保障されている」と答えた日本の高校生の割合は9割を超えます。しかし、もし「自分が学校の改善のために意見を言っていいと思えるような環境が学校にあると思うか」といったような質問であれば、肯定的な回答はもっと少なくなるのではないかと思います。


 たとえば、現在の日本ではブラック校則の見直しがすすんでいますが、生徒がブラック校則の改善について先生と話し合おうとすると、話し合う前に先生にとめられてしまうことがあります(具体例)。


 ブラック校則の改善についてではなく「この校則はなんであるのか」といったちょっとした疑問であっても、先生に言うと「昔からそう決まっているから」などさまざまな理由によって、門前払いされてしまうというようなこともあるのではないでしょうか。先ほどの『高校生の社会参加に関する意識調査報告書 − 日本・米国・中国・韓国の比較 − 』によれば、「学校の校則は生徒の意見を反映しているか」という質問に対し「反映している」と答えた学生の割合は2割を下回っているため、多くの学生が不満や意見をもっていることが推測できますが、「生徒と先生が話し合う」というできごとの前に、先生が生徒に対して一緒に話し合うことをゆるさないことがあるのです。



 さらに自己肯定感という内的要因に議論をもどします。この自己肯定感の低さは、すべて生徒そのものに起因するものなのでしょうか。僕はそうは思いません。学校内で自ら意見を言い、何かを改善しようとするうえでの自己肯定感が低い原因は、以下のようなものにあると考えます。


①学校生活より前に、家庭内で親に意見を聞いてもらえなかったり否定され続けたりしたことで、自己肯定感が低くなり、「何を言っても変わらない」という諦めの感情が生まれ、学校内の事柄についても自分で変えようと思わなくなった


②小中学校時代に学校を変えようと自分から動くも、先生や他の生徒に意見を聞いてもらえなかったり否定され続けたりしたことで、自己肯定感が低くなったり活動意欲が湧かなくなったりした


③もともとの個人の性格


 ①について。親に否定される。親にほめられたり認められたりすることがない。親が自分の話を聞いてくれない。何を言っても親に言いかえされる。以上のような経験を幼少期に積み重ねると、子どもの自己肯定感は低くなり、親に対する信頼感も自分自身に対する信頼感も失われてしまうことが予想されます(2)。


 自分に対する信頼感を失った状態では活動意欲はわかないし、自分の意見を言うことも難しいでしょう。『高校生の社会参加に関する意識調査報告書 − 日本・米国・中国・韓国の比較 − 』によれば、親とふだん自分の考えや意見について話す日本の生徒の割合は75%ほどで、諸外国と比べるとあまり差はありません。また、日本の高校生の約半分は親に自分の考えを尊重されていると感じるようです。


 しかし裏をかえせば、4分の1の学生はそもそも親とふだん自分の意見や考えについて話しておらず、約半分の生徒は親に自分の考えを尊重されていないと感じていることになります。学校内で自分が何を言っても変わらないという諦めの感情は、家庭内で幼少期から積み重ねた挫折に影響するところも大いにあるのではないでしょうか。


 ②について。幼少期に親が自分に意見を言わせてくれて自分自身への信頼を育むことができていたとしても、学校内で意見をむげに抑圧される経験を積み重ねれば、自分が何を言っても変わらないという諦めの感情が芽生えることになるかもしれません。また、誰かが行動しても変わらなかったという様子を見ていた他の生徒にも、諦めの感情が植え付けられることもあるのではないでしょうか。


 ③について。自己肯定感の低さはそれぞれ異なる個人の性格によるところもあります。①、②の要因があるので、自己肯定感の形成は後天的側面が大きいのではないかと予想しますが、本人が苦しんでいたり日常生活に重大な影響を及ぼしたりしていなければ、あくまで性格は個性であり、むりやり矯正する必要もないと思います。学校で自分の意見を言うことは大切ですが、すべての生徒が学校生活の改善のために意見を言わなければいけないというわけではないでしょう。


 このように、内的要因である自己肯定感の低さも、外的要因に大きく影響を受けていることが考えられます。ゆえに変えなければならないのは外的要因です。前述したように、学校での参加の権利を認められていると感じる生徒の割合は9割を超えています。自分が学校にいることを無条件にゆるされていると感じる生徒は多いのでしょう。


 しかし、足りないのは、「無条件に先生と生徒がコミュニケーションすることができること」です。たとえ先生と生徒が話す制度的な環境があったとしても、さまざまな理由で先生が生徒に対して、話し合うこと自体を話し合う前から抑圧したり、話し合っても生徒の意見をむげに抑圧したりしてしまっては、生徒は意見を言うことに意義を見出せず、活動意欲が低下してしまいます。


 平成25年度文科省の『特集 今を生きる若者の意識〜国際比較からみえてくるもの〜』によれば、「先行研究でも、家庭・学校・地域で自分が役に立つ存在であることを経験する機会を通じて自分の能力や存在意義を確認することで自信に変えていけるといった指摘がなされている」といいます。つまり活動を通して自己肯定感を高められる可能性があるということです。


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 これを裏返すことが正しいかどうかはわかりませんが、学校で思うように活動できず活動意欲がそがれると自己肯定感が下がる可能性もあるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、自己肯定感が下がれば活動意欲はさらに低下し、活動意欲が低下すれば自己肯定感もさらに低下する……というような負の連鎖に陥ってしまいます。


 重要なことは、生徒が意見を言えるような制度的な環境をつくるのは大前提として、そのうえでさらに先生が、生徒が意見を言うことをゆるすことにあるのだと思います。



 「無条件に先生と生徒がコミュニケーションすることができる」とは「先生側が無条件に生徒の意見をすべて受け入れる」ということとはまったく異なります。決して生徒の声をすべて実現しなければならないというわけではないのです。


 問題は先生と生徒が無条件に話し合う場が不足していることです。子どもにとって、自身の混乱や違和感を他者に説明することはとても難しいことです。特に自己肯定感が高くない子どもは勇気を人並み以上に振り絞って自分の意見を話さなければなりません。先生含め大人はそうした子どもの意見をまずはしっかりと聞き入れるべきだと思います。それから子どもたちとともに話し合い、何を受け入れ何を受け入れないかを子どもたちとともに決定していくべきなのです。


 子どもは積極的に意見を言い話し合いの場に参加することで、自らの意見を言う権利には制約があることを学んでいきます。「これは受け入れられたがこれは議論しても受け入れられなかった、自分のしたいことがすべてできるわけではないのだな」といった風に。


 しかし、話し合うことを話し合う前から拒んでしまっては、子どもは自らの意見を言う権利はもとから「存在しない」と考えてしまいます。これでは活動意欲も自己肯定感も低下するのは明らかでしょう。一方で、子どもの意見を何もかも言う通りにすることもまた、そうした制約が存在することを子どもに学ばせる機会の喪失につながります。重要なのはバランスなのです。


これは子どもたちだけの問題ではない


 もし子どもたちが、自分には意見を言う権利とその制約が同時に存在しているということを十分に学ぶことができないまま大人になったら、どのようなことが起こるのでしょうか。


 ひとつ考えられることは、大人になっても自己肯定感や活動意欲が低く、意見を言うことに抵抗を覚えたままになるということです。そしてこれは、現在の学校の先生にも当てはまっている人がいるかもしれません。たとえ生徒を取り巻く環境に改善すべき余地があるとわかっていても、自己肯定感の低さからなかなか言い出すことができないこともあるのではないでしょうか。先生にとって意見を言うことのできない内的要因が自己肯定感の低さにあるとしたら、それが形成されたのは従来の家庭や学校の中なのです。


 では、外的要因は何に当たるのでしょうか。それは先生の多忙や人員不足、保護者からの圧力などだと思います。先生の心の余裕をなくさせる外的要因が、生徒と真正面から向き合い、話し合うことを事前に先生にゆるしていないのです。



 しかし、このままではいけないことも事実です。先生の多忙や人員不足はもちろん解消しなければなりませんが、「生徒が自分の意見を学校で言えるようになる」という目標を達成するために最も必要な手段は、「先生が生徒の意見を聞こうとする」ことです。意見を言うことに抵抗を覚える生徒に現状改善を期待しても限界があります。大人が手を差し伸べる必要があるのです。


 「生徒が自分の意見を学校で言えるようになる」ということは、学校だけでなく社会全体にも関わる問題です。家庭や学校で形成された「自分が何を言っても変わらない」という感情は、たとえば選挙での低い投票率にも大きく関わる問題ではないかと思います。また、働いていて労働環境が悪いと感じても、内的要因と外的要因によって言えなくなってしまうことにもつながるのではないでしょうか。


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 社会に生きる人間を育てる根本となる学校教育において、生徒が意見を言えるような制度的な環境をつくるだけではなく、先生が生徒に対し意見を言うことをゆるすこと。少なくともデータ上では、生徒が学校側に意見を聞いてもらいたいと感じていることは明らかです。実際に先生が生徒に意見をゆるしたとしても、生徒側が話し合いを拒んだり、消極的なままであったりすることもあるかもしれません。しかしそれでも少しずつ、工夫しながら生徒に対しアプローチを続けるしかないのだと僕は考えています。


未来の学校や生徒のためだけではなく、未来の先生や家庭、社会のためにも。


補足


 ここまでの議論は「たたかい」の前の「ゆるし」について述べました。たたかうべき問題は「たたかい」の前の「ゆるし」にすでに存在していると僕は感じています。


 しかし、「たたかい」の後の「ゆるし」について説明する機会がなかったのでここで説明します。


 生徒が自分の意見を学校で言う「たたかい」のプロセスは必ずしも平和ではないと思います。もちろん非暴力手段である言語を用いますが、それでも生徒と先生との衝突はある程度は免れないものです。衝突の後、もし生徒と先生の間の対立感情がいっこうに消えなければ、このさき生徒が正当に意見を言う環境は壊れていってしまいます。「たたかい」の後にも再び両者が正当な「たたかい」をできるような場所を維持するために必要なこと。それは「ゆるし」です。



 まず、自分から他者への「ゆるし」を考えます。それは生徒と先生の両者がそれぞれたたかった相手をゆるすことです。具体的には現状の改善のためにたたかった相手に理解を示すことです。


 正当な「たたかい」は生徒と先生が対立しているように見えて、実際には両者とも「現状を改善する」という目的を根本に抱えており、仲間でもあります。たたかった後にはそれがどれだけ激しいものであったとしても、正当な「たたかい」である以上、たたかった相手に対し恨みを抱くことは間違っているでしょう。たたかった相手をゆるすことで今後の「たたかい」の場を維持する必要があります。



 次に、自分から自分自身への「ゆるし」を考えます。これは特に立場上現在不利である生徒に当てはまることだと思います。たたかった後に望むような成果が得られなかった場合、ある生徒は成功できなかった自分を恨んでしまうかもしれません。しかし、生徒も自分自身をゆるすことが必要です。


 そもそも「たたかい」という行為自体、とても勇気を必要とすることだし、周りを巻き込んでたたかっていけば、周りの生徒にもたたかう勇気が芽生えます。


 正当な手段でたたかうことは賞賛されるべきことなのです。そして、「たたかい」に失敗した生徒が自分自身をゆるせなくなってしまうことにも外的要因は存在しえます。それまでの教育で育まれた自己肯定感が低ければ自分を責めてしまうことは大いに考えられるし、もし「たたかい」に失敗した生徒を先生や他の生徒が責めてしまったら、その生徒はたたかったことを後悔し、今後たたかうことに対して抵抗を覚えるようになってしまうでしょう。ここでも必要なのは、同じくたたかった者としての先生からの理解であり、先生から生徒へ手を差し伸べることです。ひとつの「たたかい」は「ゆるし」によって始まり「ゆるし」によって終わり、「たたかい」の後の「ゆるし」は、また次の「たたかい」の場を維持する役目を負うのです。


(1)情報・知識&オピニオン imidas 『「子どもの権利条約」と日本の学校〜「物言う子ども」を育てるために(後編)』2ページより


https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-225-21-09-g858/3


(2)心理カウンセラーの種 『自己肯定感が低い原因7つ』より