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視座の話

幼少期にドレスに恋をして、ファッションに興味を持ち、絵が褒められて絵を描くのが好きになり、大学はデザイン科に進んだ。
昔から何かを作るのが好きだ。

だけど、美術大学生になって感じたことがある。恐らく私は“抽象”の良さが理解出来ない。抽象的なものへの解像度が低い。

絵画の教授に「君たちはカンディンスキーも知らんのか!」と呆れられ、調べてみたところ、目にしたことはある作品だった。でも四角や線の集まりに自身は魅力を感じることはできず、レンブラントやアルフォンス・ミュシャのように目に見えるものを描く画家の方が好みだった。
学友が作品にフワッとした精神世界みたいな作品名をつけるのも目の前の作品との関連性がよく理解できなかった。

これは、日々の生活にも同じことが言えて、抽象的な話しをされても自身は理解できないことが多い。
現在、自身はIT業界に身を置いている。ITILという名前のITサービスのベストプラクティスとも言えるフレームワークがあるのだが、こういう概念レベルのものに意義を見出せない。
でも実務を見れば、サポートデスク業務には業務手順書が必要でそれは常にアップデートしなければならないということは理解している。ただ、それを何と呼ぶか?というところには全く興味を持てないし覚えたところで意義を感じない。
(だから資格試験には受からない)

さて、抽象と具体の話をするときにとても有用な書籍がある。

きゅうりは手で触れる=具体。
ナスも然り。
これらを野菜と呼ぶ。野菜は総称であって抽象化されたものだ。更に抽象度があがると植物とか生物とかになっていく、ということがこの本には書いてある。
非常にわかりやすかった。

仕事で誰かと会話をするときには立場の違いから見ている視点が違う、ということはよくある。
経営者と従業員の見ている視界は違っている、というのは理解しているつもりだ。
でも、物事はドリルダウンやドリルアップしていけるはずなので、視座を変えれば理解できるもの、と基本的に考えている。

自分は具体的なところから抽象化していく脳みそなので、たまーにいきなりフワッとした事を言ってきて「で、具体的には何をすれば(そのフワッとしたものは)達成できるんですか?」と聞いた時に最後まで具体化できない人が居たりして社会って難しいな、と思い知らされるのである。

具体というのは、多くの人が理解できる物だと認識している。一方で抽象は高度なのかなとも思っているので、抽象から入って具体に落とし込めない人の頭の中身はどうなっているのだろうか……と専ら興味深い。

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