「目が足りない」はゲシュタルト心理学的に正しい|ビギナー認知詩学(1)
※このシリーズは、一介の文学理論オタク(@初学者)が、ゆるく楽しく認知詩学について綴った記事である。内容には諸説あるため、正しい知識が必要な方は、記事末尾の参考文献にて各自参照・補足をされたい。
(堀元見・水野太貴両氏の最大の功績の一は、↑のフォーマットを作ったことだと思ってる。本歌取り失敬。)
認知詩学とは
すごく雑に定義すると、認知言語学や認知心理学といった「認知科学」の知見を、文学研究の手法に活かそう、という学問。日本では学問として確立している分野とは言いにくく、認知言語学畑の人が用例として詩や小説の表現を取り上げて説明するケースが多い(文学研究者の側が認知言語学の知見を利用するケースはそこまでメジャーとは言えないかも)。海外では、cognitive poeticsを書名に冠する研究がいくつかあるみたい。何にせよここ2、30年くらいで温まってきた新しい学問なので、青田買いするなら今かもしれない。知らんけど。
図と地
タイトル回収しとこ。
アイドルグループなんかを推してる人なら分かるであろう、「目が足りない」現象。私自身「箱推し」なので痛感するのだが、メンバー全員の良い所をまんべんなく見たいと思っても、どうしても各シーン毎に「強制的に目を奪ってくる」メンバーがいる。その主役級の後方で、よぉく見ると実は隠れてファンサをかましてるメンバーがいる(好き)。そんな感じが連続同時多発するので、「ああっ、目が二つでは足りない!」となるわけ。分かる。
だけど、この問題はたとえ目が十個あっても解決しないかもしれなくて、人間の認知の特性として、目立つものに注目してしまう仕組みが存在するらしい。これを、ゲシュタルト心理学の用語で「図と地」という。認知言語学では「トラジェクターとランドマーク」というよく似た概念があるけども、両者の関係については不勉強につき曖昧です(勘弁)。なので今回は「図と地」の呼称で統一する。
これを説明する時に必ず出されるのがこちら↓
有名なので、盃部分(黒)だけではなく、向かい合う二人の横顔(白)がほぼ同時に見える方もいるかもしれないが、あくまでそれは「ほぼ」というだけで、実際には同時に両者を見ることは不可能である。たとえば、盃を最初に認めた場合は、黒の方を「図」と捉え、その背景に白い「地」があると見なすことになる。向かい合う二人を認めた場合はその逆。我々は、対象を「図」と「地」の軽重を付けて把握せざるを得ないのである。この認知のもと、圧倒的センターのあの人は「図」となり、後方で密やかに流し目を送るあの人は「地」となりやすいから、ニッチな推しを担当しているファンはこの人間の認知の習性と闘わなければならず、最終的に「図」と「地」が反転するまで動画を繰り返し視聴したり、コマ送りでじっくり見たりしなければならない。それはそれで幸せだけど、ゲシュタルト多忙が過ぎるのよ。
図になりやすい特徴
この認知の働きはよく「スポットライト」に喩えられる。ただし、スポットライトは照明担当が自在に操ることができるのに対し、人間の認知では、自分の意志とは関わらず、自然と「図」として把握してしまいやすい対象というのが決まっている。「図」となりやすいものの共通特性として、次のような要素が挙げられる。
いかがだろうか、皆様の推し各位には当てはまっているだろうか? 大体これらに当てはまると、不動のセンターという扱いになっていくと思われる。
図を作り出す方法
さっき、「図と地があるおかげでニッチなファンはゲシュタルト多忙」という話をしたが、それでも大概のグループでは、敢えて「図と地」の序列を作ることで、グループとしての魅力を高めようと企てるものである。やっぱり「看板」がある方が訴求力が強いからかな。
じゃあ、どうやって「図」を作り出すか。
動画だと、さっきも挙げたスポットライト(照明の強弱)や、カメラワークを駆使して「図」を目立たせる工夫がなされる。ライブだと観客は定点で見ることになるので、フォーメーションや衣装・振り付けの差等で「図」を引き立てる仕掛けを作る。この時の工夫や仕掛けについて、上に引用した①〜⑦の要素を参照してみると、それで説明が付くものも多いと思う。
とまあ、ここまで推しのグループを例に「図と地」を説明してきたけれども、次はいよいよ詩学、すなわち文学作品の読みにこの概念をどう活かすか、について話していきたい。文学作品の場合はスポットライトとかフォーメーションとか使えないから、作者はどうやって「図」を作り出しているのか? その言語表現の工夫の一端を、和歌を例として具体的に見ていく予定である。
次回に続く。