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私の推しごと(人生の『お仕事』でもある)

noteサーフィン中、素敵な企画に巡り会えた。

先日職場で、同僚の方にうっかり「推し語り」をしてしまったところ、とても寛容に受け取ってくださって、「いいなあ、私にとっても推しになりそう」という温かいお言葉までいただけた。

私も誰かの「推し語り」を聞くのが大好き。そのためこの企画は幸せ過ぎる。私の場合、おそらく「推し被り」することは無いと思うけれど、現世のアイドルだってアニメキャラだって平安時代の歌人だって、深く掘れば深層で繋がるというのが「推しごと」だと思う(ボーリング作業で、どこから掘っても深い地層に行き着くのと同じように)。だから以下の語りは、皆様の推しと重ね合わせて読んでいただけると幸甚です。


紀貫之について

紀貫之きのつらゆきは西暦800年代末から900年代半ば頃に生きた歌人である。今シーズンの大河ドラマ「光る君へ」で描かれる時代(1000年代)のちょっと前。紫式部のお爺さん(藤原兼輔)とも親交があった貫之だが、もともとは兼輔のような有力貴族に目をかけてもらえるような生まれでもなかった。時は大藤原氏時代、紀氏は古代の名門ではあるが今や弱小、その上貫之自身が宮中の妓女を母に持つ、決して高貴とは言えない妾腹の子。それが、歌人としてのスターダムを駆け上がり、やがて1000年後の今に伝わる『古今和歌集』を編纂するに至る。ここらへんのシンデレラストーリーについて補いつつ、以下に彼の魅力を語りたい。

貫之のここが好き①人柄・エピソード

さて、そんな貫之のどこが好き?という話。私にとっての「馴れ初め」は、高校の時に教科書で出会った彼の和歌なのであるが、ここでは先に彼の人柄や生い立ち、関連エピソードについて語りたい(先日同僚さんに熱く語ったのも、彼の人柄の部分なので)。

さっきも言った通り、彼は妓女の母から生まれた子。父は下級貴族である紀望行きのもちゆきとみられる。どうやらお父ちゃんは早く亡くなり、お母ちゃんの仕事場である「内教坊」(=宮中の歌舞を司る役所)の中で育てられたらしい。華やかなお姉様方に「アコちゃん、アコちゃん(阿古久曽)♥️」と呼ばれて可愛がられ、歌と舞とに溢れる環境で育った彼が、どんなふうな大人に育っていくかというとー

まず、有名な『土佐日記』での振る舞いのように、女性の「演技」がとっても上手になった。大親友の躬恒くんともまるで恋歌のようなやりとりで遊ぶ。

躬恒「貫之〜!月が綺麗だから遊びに来たよ!」
貫之「そんなこと言って、地上を隈なく照らす月光と同じで、誰のとこにでもほいほい遊びに行くんでしょ、あなたは」

『古今和歌集』より

みたいな感じ。「女歌」といわれる当時の作法に則って、親しく近づいてきた男にスネて見せたり、冷淡にハネつけて見せたりする演技が大得意(もちろん、そういう「じゃれ合い」ではある)。
あ、急に出てきた躬恒くんは、『古今和歌集』の四人の撰者(編集チーム)うちの一人、凡河内躬恒おおしこうちのみつねめっちゃ仲良しだったみたいで、一緒に山にハイキングに行って、

躬恒「奥山に船漕ぐ音の聞こゆるは」
   (山奥なのに船を漕ぐ音が聞こえるのは)
貫之「なれる木の実やうみわたるらん」
   (樹上の果実が「うみわたる」
     =熟しきって&海を渡っているから
      だろうか?)

『俊頼髄脳』より

という連歌みたいな掛け合いでキャッキャキャッキャしてたりする(※主観含む)。またある時、大事な貴人のお祝いイベントで、贈り物の屏風に和歌を書き込むんだけど、その中の一首が空欄のままになっていることが当日になって発覚。先代天皇の妃であった伊勢の御が、「ちょっとこれどうするの、今すぐ貫之か躬恒を呼びなさい!」と家臣に命じるも、「あー…、あの二人なら一緒に出かけてて不在っすね…w」という返答。やっぱり仲良しか。結局伊勢の御さまが代わりに屏風歌を詠んで事無きを得た、とある(『伊勢集』より)。他にも「ツラミツ(ミツツラ?どっちでもええか)」エピソードはいっぱいあるが、興味のある方はぜひ下記リンク(ややマニアック)もご高覧いただければ。

チーム内仲良し(わちゃわちゃ)って癒されますよね?推し活における普遍性の一つだと思ってる。

話を戻して、内教坊育ちの貫之が身につけたスキルは他にもあって、住吉大社の臨時祭で「舞人ダンサー」を務めてたりする。うた(※和歌ではなく、歌謡とか歌唱、シンガーとしてのスキル)の方は不明だが、『土佐日記』では船乗りが歌う歌謡を記し留めていたりするので、やはり知識も関心もあったんじゃないかな。歌って踊れるなんてアイドルやーん!(違う)
あと特記すべきは、字が上手だったこと。推測になるけど、これも内教坊のお姉様方から、いろんな男性貴族より贈られたラブレターを見せてもらって、それを用いて手習いをしていたから、だったりして。そしてここで記憶(記録)した恋歌が、後に『古今和歌集』を編纂する際に材料になった可能性もあるかな、なんて。

まあ、そんな感じで生まれ育ちからキャラが立っている貫之だが、父母が高貴というわけでもなく、特に父を亡くしてパトロンがいない状態で、学生(文章生)として立身出世を図るけど、そこはなかなか苦労した様子。当時はコネが物を言う世界。従兄弟の紀友則きのとものりに手を引かれて歌合うたあわせ(=和歌でバトルする社交的イベント)デビューし、実力を認められたのち30代で『古今和歌集』撰者に抜擢される一方、官位は上がらず、役職の方も、地道に嘆願してなんとか仕事にありつける状態。歌人としての実力と官人としての評価、和歌世界と実社会、そういった《理想》と《現実》に引き裂かれる経験が原因なのか、彼の和歌には光と影の両面が感じられるし、またその性格においても、明るさとシニカルさの二面性が見受けられる。

あの…、どこか葛藤のある人って、独特の色気がありません?皆様の推し様方はいかがです?(同意を求めてみる)

たとえば『土佐日記』には、明るい軽口をたたくライトサイドの貫之と同時に、シニカルで冷淡な裏貫之が存在している。教科書にもしばしば引かれる「帰京」の場面で、「自分が留守中は隣人に自宅の保全をお願いしてたのに、この荒れっぷりよ」と毒づきつつ、その後すぐに「まあでも、一応お礼はしようと思う」と書かずにはいられない両面性。高知から京都への航海中、海が大荒れになり、船頭から「海神の怒りを鎮めるために、何か高価なものをお供えするように」と言われたので、船中に唯一あった宝鏡を海に投げ入れることになった際も、「人間の目ん玉でさえ二つ付いてるというのに、この船にたった一つしかない貴重な鏡を欲しがるとは、神も現金なことだ。まるでこの船頭と同類じゃないか」と毒舌絶好調。彼のそういう性格が祟ったのか、神様(蟻通神社)の前を馬から下りずに通ったせいで怪異に見舞われ、その後和歌の力量でピンチを逃れるエピソードもある。蟻通神社では能舞台の修復のために去年クラファンを募っていて、その返礼品の一つが貫之の絵馬だった。上馬ver.のアクスタならぬモクスタ。蟻通の神様、ひょっとして根に持ってる??(笑)

推しグッズ助かります、ありがとう蟻通神社さま!

貫之のここが好き②和歌

さすがに語りすぎた自覚はある。でも語り切れてはいない、何しろまだ貫之の和歌について語っていない!困った。
ぐっと我慢してここは五首だけ厳選するので、しばし紙幅を拝借したい。

1、桜花散りぬる風の名残りには水無き空に波ぞ立ちける
沼墜ちのきっかけ。高校の教科書に載ってた(授業ではやらなかった🥺)。「水無き空」なんて言い方が理屈っぽくて鼻につく!って怒る某正岡子規もいそうだが、これも「あれれ〜?空に水なんてないはずなのに、波が立つなんておっかしいな〜??」という演技の一環(それも鼻につくといわれるとどうしようもない)。そしてこの否定表現のおかげで、むしろ空一面に水がたゆたっているような、幻想的な情景が創り上げられる。花びらが空を舞うさまを白波に見立てるビジュアルはもちろん美しいが、実は「散りぬる(=散ってしまった)」が、喪失への憂いを表している点で、よく利いている。この影(憂い)から光(美景)への転じ方が、上述した貫之の二面性。「言葉の魔術師」とか称賛され、ややもすれば口先だけの理屈屋みたいに扱われがちな彼だが、このほろ苦い表現こそ私的推しポイント。

2、夏の夜の臥すかとすればほととぎす鳴く一声に明くるしののめ
10代の頃の作と見られている、初期の和歌。ホトトギスが鳴いたら夜が明けた!という発想は漢詩に基づくもので、流行りに乗って上手く詠めたね〜えらいえらい、というだけに見えるけど、初句の「夏の夜(※に、等ではないことに注意)」とか、第二句の「臥すかとすれば」という詠歌主体人物の行為とか、「しののめ」という万葉語の摂取とか、実は渋い小技が利かされている。別記事にも書いたのでよろしければ。

3、手も触れで月日経にける白真弓おきふしよるはいこそ寝られね
恋歌。古今集はスキルフルな歌が多いから、恋歌も小手先ばかりで感心しない、という評価が主流だと思うけど、ちょっと待って。そのスキルこそ愛なんよ。愛しい女性を「白真弓」に喩えて、ずっと手も触れずに月日が経った…と嘆きつつ、下の句(「居ても立ってもおられず、夜は一睡もできない」の意)には「おき」「ふし」「よる」「い」の弓関連用語が掛詞として用いられている。アクロバティックだけど、別に自慢しようというわけじゃなく、これだけ言葉を尽くして想いを告げたいという表れと取るべき。私は艶めかしい歌だな、と思う。これも別記事で書いたのでよければ見てください。

4、同じ色に散りしまがへば桜花ふりにし雪の形見とぞ見る
古今集成立後、壮年〜晩年の貫之は貴人御用達の屏風歌作者として活躍するようになる。人によっては貫之の屏風歌の方を評価する向きもあるけど、私はやっぱり、古今集までの貫之が好き。勝手な憶測だけど、古今集で名が売れた後は(相変わらず地位や役職は低級だとはいえ)以前ほどのハングリー精神は無かっただろうし、《理想》と《現実》のギャップから来る彼特有の葛藤や陰影は、お祝い事の贈答に用いる屏風歌には必要とされなかっただろうから、畢竟ひっきょう穏やかで平易な作風になってしまった。それでも、時折顔を覗かせるほろ苦い表現。この歌も屏風歌ではあるが、第四句「ふりにし」は、「降りにし」と「古りにし」の掛詞で、冬に降った雪をまるで過ぎ去った故人のように惜しみ、その「形見」が、次の季節にほの白く花を咲かせる桜であると見立てている。1の歌では、散ってしまった桜を憂う気持ちを、白波がきらめく空の美景に昇華させたが、この4の歌では、雪を惜しむ憂いを、同じ色のゆかりとして桜に託し、その面影を見ている。しかしその桜も、雪と同じく今や散ってしまい、風に乗って遠くへ消えていくばかり。1とは違い、雪や桜を見つめる視線に優しさはあるけれども、同時に、憂いは憂いのままで昇華できない、空虚な寂しさが残ってしまう。

5、手にむすぶ水に宿れる月影の在るか無きかの世にこそありけれ
貫之辞世の歌。手のひらに掬った水には、わずかに月の光が揺らめいているけれども、掴もうとしたところで、指の間から水は零れて、月も逃げていく。我が人生は、水に浮かぶ月のように、在るか無きかの儚い月日であった。
貫之らしい、綺麗な歌だとは思うけど、悲しくてやりきれなくなる。仏教的な作法とか、謙遜とかももちろん含まれてはいるだろうけど、1000年を超えて伝わる勅撰集を生み出した人の歌とは到底思えない。考えてほしい、自分の推しが最期の瞬間に(いやそれを想像するのも酷だけども😅)、「儚い人生だったな…」と寂しく回想するなんてこと、あっていいはずがないでしょう。
貫之は最晩年に『新撰和歌』という古今集Remix版みたいな歌集を編んでいて、その序文には「自分が死んだら、和歌が散逸してしまう」という焦燥感を記している。結局それは杞憂で、古今集は後代聖典の地位を占め続け、正岡子規により革新が果たされた後も、短歌と名を変えて存続している。貫之にはこれからもお空の上からこの状況を見て微笑んでいてほしいし、貫之の良さを解明・説明していくことが、彼を寂しさから救うための手段になると信じている。

まとめ

以上、これが私の推しごとです。
重たいですか?(笑)
でも、とどのつまり言いたいことは「推しのために生きることが、私の人生の幸せになる」という、ありふれた結論。それがたとえ、既にこの世にいない推しであったとしても。
まだまだこの推しごとは完結しそうにないので、これからも健康に気をつけて細々と在野研究を続けるしかなさそう。

皆様の推しごとが、明日も明後日も、ずっと幸せに続きますように。長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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