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ドン底の底-1

1.嵐の桜吹雪

義母が他界した。脳梗塞で倒れ、助かる見込みはないと言われて10日ほど過ぎた4月の終わりに。日常生活の全てを中途半端にしたまま、突然消えてしまった。

 義母が倒れて救急搬送された直後、彼女が経営の権利を頑なに手放そうとしなかった花屋に向かった。入り口には手付かずの段ボール箱が積まれたままになっていた。堆く積まれた過剰在庫に寒気がした。大きく息を吸って、段ボール箱の中を確かめるとカビの花を纏った白い花だった。次の箱はカビの花を纏った黄色い花、次も、またその次も、もはや花の種類さえもわからないくらいの劣化ぶりだ。義母の回復を祈る気持ちにもならないまま、黙って段ボール箱の中のカビの花を次々とゴミ箱に運んだ。
散らかった他人の日常生活を片付けるというのは大変なことだ。店に入るとそこには義母の日常生活があった。飲みかけた飲料水のペットボトル、事務机に散らかった伝票、近所の定食屋のメニュー表。主人不在の店は彼女が倒れた時のまま、時間が止まったようだった。

突然、静けさを破るように店の電話が鳴った。
『もしもし奥さん?最近来ないから…あれ?ちょっと奥さんは?』
受話器の向こうの声の主はどうやら義母に向かって話しかけているようだ。
『すみません、私嫁なんですけど、義母(はは)は今朝起きてこなかったようで…救急搬送されて意識が戻らないんです。』
そう答え、相手を確かめようとした私に、受話器の向こうの彼女は名乗りもせずに続けた『え?奥さん倒れられたの?お見舞い行ってもいいかしら?すぐにでもお見舞いにお邪魔したいのですけど、どこの病院にいらっしゃる?』
わりと強引な人だ。今朝救急搬送されて意識不明だと知っても、義母の見舞いに誰よりも早く駆けつけたいほど仲がよかったのだろうか。
『すみません、どちらさまでしょうか?』
私はようやく相手を確かめる一言を発することができた。
『あ、私?"華マル生花市場"ですけど。奥さんにはいつもお世話になってまして…。』
厚かましく騒々しい声の主は仕入れ先の"華マル市場"の社長夫人だった。

市内でどこよりも早く『スーパーマーケットの花売り場』と委託契約し、カジュアルフラワーと呼ばれるパック花の納品を始めたウチの会社が、破竹の勢いで年商一億円を超えようとしていたのはもう25年以上も前のことだ。今では栄華のかけらもない。賑わっていた駅前の本店も今や資金繰りのため賃貸物件として家賃収入を得ている。
 転落のきっかけは取引先だった葬儀社が倒産し、売掛金を回収できなかったことだ。悪名高い『華マル生花』は"安い花を売っている"という売り文句で、焦る義母につけ込んできたようだ。二束三文で品質の悪いものを押し売りして、支払いが滞ると『延滞利息』として14.6%を加算してくる。

 義母が倒れた次の日も"華マル生花"の社長夫人は電話をかけてきた。倒れて意識不明だとわかっていて何の話だろうと苛立ちを感じたが、尋ねるまでもなく彼女の第一声は支払いを迫るものだった。受話器の向こうの彼女はヒステリックに
『ちょっと、奥さんどうなってるの?支払いしてもらえるのかしら?』
と言ったが、私には何のことだか意味がわからない。帳簿だけでなく生花市場から届く伝票さえ見ることを許されていなかった夫と私は、ただ謝ることしかできなかった。
『申し訳ありません。義母が意識不明のままでして、まだ昨日の今日で何も把握できていませんので改めてご連絡させていただこうと思います。今しばらくお待ちいただけませんでしょうか。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。』
受話器に向かって頭を下げている姿は滑稽だが、日本人ならほとんどの人がそうするように私も受話器に向かって頭を下げた。
『ちょっと!早く払ってよ、通帳見せなさいよ。奥さん支払うって約束したんだから。早く通帳出しなさいよ』
下げた頭の上から怒鳴りつけるように彼女の声が聞こえた。電話の向こう側から通帳を見せろと言って怒鳴る彼女の声をどこか遠くに感じて、一体いくらの買掛金があるのだろうと思いながら会社の通帳を開いてみたが、預金残高はおおよそ会社の通帳とは思えない哀れなものだった。これではどこにも支払いができない。

いつの間にか電話は切れていた。

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