感情の発露とファンダム
ファンダム:アーティストなどの熱烈なファンのこと。
皆さんは好きなアニメや映画というのがあるだろうか?いや、普通はあるだろう。俺にだってある。
ならば、その作品に不満点はあるだろうか?
この世には完全無欠な作品というのは存在しない。どこかしら弱点が存在し、ある人はその弱点を嫌悪し、またある人は魅力を感じる。
ここで疑問に思ったことがある。「○○は苦手なんだよね」という話をファンダムでするべきなのか?
話は変わるが、俺には10年来愛していたアニメがあった。聖地巡礼もしたほどだ。だが、そのアニメに俺は大きな弱点を感じていた。
別作品の盗作にしか思えなかったのだ。
絶対的な根拠があるわけではない。妄想と一蹴されるべき内容かもしれない。しかしながら、自分を否定しようとあれこれ調べると、その"妄想"の強度はますます強くなった。
俺はその強度を増していた懸念をツイッター上ではひた隠しにし、絶賛した。理由は簡単で、触れたくなかったのだ。なぜなら、それは自分がいちばん好きだったアニメだったからだ。それ以上でも以下でもない。
だが、転機が訪れた。自分の中でのベストアニメが更新されたのだ。それは、元の作品にとっては隙であった。批判の付け入る隙、評価の落ちる隙。そういうものであった。
結果として、俺はこれまで湧いた疑念を晴らすべくツイートという形でその懸念を公開した。ファンダムの中で。
話を戻そう。やはり熱狂的なファン、度々ネット上で信者と称されるそれは、エコーチェンバーを形成する傾向にある。そして一度形成されたものは簡単には打ち消せない。いつのまにか些細な批判すらも許されなくなる。そういうものだ。そしてそれは古今東西、ありとあらゆる界隈で見られる普遍的なことだ。
その一方で、それで良いのか?とも俺は思う。批判をせずに自分の内に抱えるというのはすなわち自分に嘘をつくということだ。嘘はいつか膨れ上がり、破裂し、ファンダムに致命的なヒビを入らせる。
抱えた自己矛盾を前にして、人は困惑し悲嘆する。それは自らのQOLを下げ、自分という存在にさえ疑問を感じさせかねない。
ならば、どうするべきかと言われると、感情というガス抜きは必要であるという結論に至る。あそこが微妙だったねとか、あそこは好きだよとか、そういう普段のたわいもない会話や感情の発露こそが、実はファンダムを長く保つ秘訣ではないか。ファンダムとは肯定だけの付き合いではないのではないか。少なくとも俺はそう思う。