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批判の対象は広げるべきではない

ここ最近、Xを見てよく思うことがひとつある。

「批判の矛先広すぎね…?」

法律や常識、マナーに反する行為というのは今もなお世界中で行われている。その幅だって様々で、例えば車の来ない道を横断歩道ではないところで渡るといった誰もがやったことのあるだろう違反から、殺人といった極刑に処されるものまである。

そんなこんなで、問題行為は国籍や人種、趣味などを問わずに頻発しているわけだが、Xではよく「〇〇の民度低すぎワロタ」とか「〇〇人クソすぎる」のような批判対象が無駄に広いポストが散見される。

これはまあ、批判された側が不快な気持ちになるという感情的な側面もあるのだが、それ以上に問題がある行為のように思う。今回のnoteはこれをテーマに書く。

まず大きな問題として、一般大多数の人間への風評被害が挙げられる。これは単に失礼な行為であるのもそうだが、しかしそれだけでは収まらない場合がある。例えば、ある企業が不祥事を起こした場合。本来批判される上層部などの責任があるものから批判の対象を広げることで、一般社員やアルバイトへの批判がSNSなどで積み重なるのだ。最近よく言われるカスタマーハラスメントもその一部だろう。

次が批判としての効果の減衰にあると個人的に思う。Xでは圧倒的に低いリスクで批判ができるため忘れられがちだが、本来批判というのはそれ相応の覚悟を持って行うべき行為である。覚悟と莫大なリスクを背負うからこそ、尖った言葉は相手の行動の変容に繋がり、初めて意味を持つわけだ。

これが範囲を広げてしまうと、批判として大きくぼやけたものとなり、結果として本来言葉を向けたい相手へ届かないという本末転倒な事態になるのだ。

さらに一番大きな問題として、ヘイトの誘発があるだろう。先日中国で発生した在中日本人殺害事件では、日中問わず膨大な数のヘイトが飛び交った。その中にはもちろん、日本人や中国人といった民族、国籍を一括りにした批判が多く含まれている。

このことは、批判対象へのヘイトを必要以上に稼ぐことになってしまい、今後のさらなる犯罪やヘイトに繋がってしまうのだ。

このように、批判対象を広げることには複数の問題が存在する。批判というのは先ほども書いたが、覚悟を持って行うべき侮辱である。よって、その侮辱を最大効果かつ余計な風評被害をもたらさないために、批判対象はしっかりと絞るべきである。

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