ロスアンジェルス暴動 #3
ゲトーで暮らす黒人にとって、ポリスの存在は恐怖でしかない。
道を歩いていると、
「お前、何してるねん」
「お前どこから来てん」
「お前、どこ行くねん」
毎日毎日、ポリスに止められ、同じことを聞かれる。
抵抗はもちろん、答え方を間違えると、暴力をふるわれたり、逮捕されたり、殺されることもある。
何も悪いことをしていないのに殴られ続けていると、次第に自分自身が価値のない人間に思えてくる。
ところが、これら黒人コミュニティで行われていることが、社会に伝えられることはない。
ギャングスタラップの誕生
アメリカのラジオ、テレビ、ケーブルテレビ、新聞、雑誌などのメディアをコントロールしているのは、この国の億万長者、白人たちだ。
すべての巨大メディアを買い取った彼らは、自分たちにとって都合のよい情報を人々に与えることができる。
一方、メディアをコントロールできない黒人は、自分たちの言葉で、国民にメッセージを送ることすらできない。
これらメディアのコントロールは、この国の黒人差別を隠蔽し、黒人にパワーを与えないシステムのひとつだ。
1980年代後半、ギャングスタラップが誕生した。
ギャングスタラップは、ドラッグ、ギャング、貧困、警察官の暴力が蔓延る黒人コミュニティの極悪の環境を、ストレートに伝えた。
1986年、アイス・Tは、LA初のギャングスタラップ「シックス・イン・ザ・モーニング」をリリースした。
「朝6時、ポリスが部屋のドアを叩く・・・拳銃と金を持ってバスルームの窓から逃げ出す・・・逮捕され、7年間服役する・・・釈放された直後からギャング生活に逆戻り・・・ポリスに追われ、女の家に逃げ込む・・・友達とニューヨークへ行く・・・そこでも同じようなことが起こる・・・」
ギャングのストリートライフの詳細を、淡々とラップにしている。
彼はギャング、クリプスのメンバーだった。
交通事故で入院した時、彼を見舞ったメンバーはいなかった。
仲間だと思っていたけれど、誰も自分のことを気にかけていなかった。
これを機に、音楽活動に専念し始めた。
「俺の知ってること、見てきた事実をラップにする。
俺は真実だけを伝える。
真実には人を惹きつけるパワーがある。
俺にはそれができる」
真実のラップに影響を受けたグループが、アイス・キューブや、ドクター・ドレーが在籍したN.W.A.だ。
1988年にリリースされたデビューアルバム、「ストレイト・アウタ・コンプトン」は、ヒップホップの世界に最も影響を与えた1枚だ。
その中の「ファック・ザ・ポリス」は、裁判のシーンを歌ったものだ。
「お前らポリスは、マイノリティーを殺す、自分たちには、その権利があると思ってる・・・黒人ポリスは白人ポリスにブラザーを引き渡す・・・ポリスは、気分次第で俺らの車を停車させる・・・なにも悪いことしてないのに、俺らを殴りつけて牢屋に放り込む・・・こんな誘拐まがいの逮捕に、俺らはうんざりしてるんや!!!」
N.W.A.のメンバーが、それぞれポリスの暴力行為を証言する。
最終的に、裁判官役のDr.ドレ―が、ポリスを有罪にするストーリーだ。
この曲に対して、FBIが動いた。
「この曲は、暴力行為を支持するものであり、警察に対する非難は的を得ていない。
このような行為に対し、警察機関は異議を申し立てる!」
警察組織は、N.W.Aのツアーのセキュリティーを拒否し、ツアーを妨害した。
この曲には「警告」が出され、ラジオやテレビで放送できなくなった。
とはいえ真実の言葉は人々の心を惹きつけ、3つのプラチナアルバムを受賞した。
「ギャングスタラップの真髄は真実を伝えることや。
世間の人々に情報を与えること。
黒人の子供たちは、家の扉を開けた瞬間から命の危険にさらされてる。
白人の子供たちの中にも、黒人街で何が起こっているか、知りたがっている子はおるはずや。
俺は、子供たちに真実を伝える責任がある。
黒人に対する世間の評価も間違ってる。
ステレオタイプの人たちに、俺らは真実を伝えたい。
ギャングスタラッパーは、すべての決定権を白人が所有するこの国に対して、ラップという形で申し立てをしてるんや」
アイス・キューブの言葉だ。
1992年、アイス・Tが「コップキラー」をリリースした。
「俺はコップキラーや。
コップの暴力行為、残虐行為にうんざりや。
今晩、俺はコップを殺す。
俺は、お前の家族、お前のママの悲しみを理解できるよ。
でも、そんなこと、知ったことじゃない。
俺がお前を殺すことで、お互いさまになるんや」
”そんなこと知ったことじゃない”と思うようになるまで、黒人は、警察官の暴力に耐えに耐えてきた。
もちろんFBIは動いた。
「警官を殺してもいいとは、なにごとや!」
ブッシュ大統領と、ダン・クウェール副大統領が登場し、この曲を1週間以内にアルバムから削除するよう命令した。
サウスセントラルを舞台にした映画
黒人の現状を伝えたのは、ギャングスタラップだけではない。
サウスセントラルを舞台にした映画もリリースされた。
1988年、デニス・ホッパー(Dennis Hopper)監督の「カラーズ」は、実際に、ロスアンジェルス警察や、ギャングの協力を得て撮影した。
ギャングたちとコミュニケーションを取り、事件を解決する良い警官を、ロバート・デュヴァルが演じる。
一方、「黒人は犯罪者」という固定観念で、黒人に暴力を奮う悪い新米警官をショーン・ペンが演じている。
最後にロバート・デュアルが殉職し、ショーン・ペンが良い警官に変身するという、ハッピーエンドのストーリーは安易だけれど、警察官の暴力、ギャング同士の抗争、黒人たちが警察を信用していない様子が理解できる。
1991年7月、キューバ・グッディン・ジュニア主演の「ボーイズ・イン・ザ・フッド」が公開された。
サウスセントラルで育つ、幼馴染3人の話だ。
厳しい父親ジェイソン(ローレンス・フィッシュバーン)の元で暮らす”トレ”をキューバが演じる。
シングルマザーの家庭で、才能あるアメリカンフットボール選手、”リッキー”を演じるのは、モリス・チェストナットだ。
リッキーの兄で、ギャングの”ダウボーイ”役は、アイス・キューブだ。
最終的に、トレは大学へ、リッキーはギャングに殺され、リッキーの仇をとったダウボーイもギャングに殺される。
この映画では、ギャング、ドラッグで子育てができない母親、黒人を見下す黒人ポリスの姿が垣間見れる。
そして、男の子をギャングではなく「男」に、他人に服従するのではなく「リーダー」になるよう育てる、父親の厳しさや強さが理解できる。
監督は、サウスロスアンジェルス出身のジョン・シングルトンだ。
アイス・キューブは、台本を読んだとき、
「これは俺の役や!」
と思った。
キューバやモリスもロスアンジェルス出身だ。
この映画は、その頃のLAを知っている人々によって作られた作品だ。
忘れられないシーンがある。
ジェイソンがトレやリッキー、ゲトーのギャングたちに説教する場面だ。
「・・・俺らは飛行機も船も持ってない。
どうやってコケインや銃をコミュニティーに持ち込むねん?
持ち込んだのは俺らじゃない。
ガンショップがなんで各コミュニティーにあるねん?
各コーナーにリカーショップがあるのと同じや。
なんでか知ってるか?
あいつらは俺らに死んでほしいねん。
俺らが勝手に死ぬように仕向けてるんや。
ビバリーヒルズにこんな店ない。
あいつらは俺ら黒人を破滅に追い込みたいんや。
俺らが死んだら次の世代はない。
あいつらにとったら、俺らを破滅させる一番ええ方法や。
俺ら黒人は、国に頼らずに自分らだけで生きていかなあかん」
シカゴ育ちのダンナも同じことを言っていた。
3本目の映画は、1992年9月にリリースされた「サウス・セントラル」。
クリプスのメンバーで殺人罪を冒したボビーが、服役中にイスラム教の教えを受けて改心する。
出所すると、我が子(ジミー)が、ギャングメンバーになっていた。
ボビーが息子を、命がけで救うストーリーだ。
両親の愛を知らずに育った子供は、お金やマリファナを与えてくれるギャングこそ、自分のことを思ってくれる大人だと勘違いする。
家に帰っても、それが本当の愛ではないと教えてくれる親は不在だ。
ジミーは、ギャングの要請で、カーステレオを盗む際、車のオーナーに撃たれて瀕死の重傷を負う。
病院に来た母親が叫ぶ。
「この子も父親と同じ道を進むんや!父親が彼の父親と同じ道を進んだように!」
おそらく、これが黒人コミュニティの現状だ。
この映画の原作は1987年に出版された。
著者のドナルド・バキアは、サウスセントラルで30年間英語の教師をしていた。
サウスセントラルで、子供たちを見守ってきたバキアによって書かれたストーリーは、最初から最後まで暗く、重く、苦しく、悲しい。
映画でも、華やかな色は一切ない。
シカゴのサウスやウェストサイドも同じような色だった。
1965年のワッツ暴動以降、サウスセントラルの黒人の、警察官や国家に対する怒りは沸々と高まっていた。
「俺らは常に怒りやフラストレーションと闘ってる。
最初は自分を傷付けたり、他人を傷付けたりするものじゃないよ。
でも、いつの日か、他人を傷つけるものになる予感はあったよ」
アイス・Tは、彼ら黒人の抑え続けた怒りが頂点に達し、暴力に向かう可能性を感じていた。