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恋するアンジー

 私はシアトルにある老人ホームのレストランでウェイトレスをしている。
 日本の大雪ほどではないけれど、シアトルもここ数日、雪が降っている。シアトルの人は雪に慣れていないし、アップダウンの激しい町なので、雪が積もると、途端に生活がストップする。仕事へ行かない、買物へ行かない、バスも止まる。以前働いていたグロッスリーストアでも、多くの従業員が仕事に来なかった。従業員も少ないけれど、客も少ない。品物も届いたり、届かなかったり。とりあえず、どうにかなるし、ならなくても、生死に関わるようなことは起こらない。
 けれども、老人ホームは休むわけにはいかない。誰も行かなければ、老人たちはお薬も飲めず、食事も与えられず、お風呂にも入れず、中にはトイレにも行けない、オムツを変えられない人も出て来る。大惨事だ!とはいえ、偉い人たちはオムツを変える仕事をしていないので、ほぼ全員休んだ。
 私の通勤路は大通りしか使わないし、ダンナの車は全輪駆動だ。雪でもスイスイたどり着く。クックのアラーナは普通乗用車だけれど、当たり前のように出勤していた。アラーナと同じエリアに暮らす高校生のナットは、未だに出勤していない。
「天候のため日曜日まで行けません。代わりに働いてくれる?」
 昨日もテキストが届いた。私は君の代わりに働くためにいるのではない。
「誰か送ってくれる人おる?」
 試しに聞いてみると、1秒で「NO」という返事が届いた。
 少し前から働き始めたキラは、乗り換えのバスが運行中止になったため、歩いて職場にたどり着いた。ボスのリンジーは、坂の下で車が動かなくなったため、車を放置して、ウーバーで出勤した。
 仕事に来る人来ない人、限られた人員でシフトを組み、朝から晩まで働いた。なかなか忙しい1週間だった。
 この忙しいタイミングで、住民のアンジーが恋をした。
 アライグマのような目で私を見つめるアンジーは、甘えん坊で、誰よりも一番大切にされていたいおばあさんだ。
「ユミ、前かけをかけて」
「ユミ、ポットにアイスティーを作って」
「ユミ、砂糖は何個入れた?」
「ユミ、ジョニー(シーズニング)を振って」
「ユミ、これを切って」
「ユミ、フルーツをもうひとつ頂戴」
「ユミ、私のオーダーは通ってる?」
「ユミ、ナプキンを取って」
「ユミ・・・ユミ・・・ユミ・・・」
 前を通るたびに声をかける。用事を見つけることにおいては天才的だ。
 私は30人以上の人たちのサーヴィスをしているので、たいした用事がないとわかっているとき、忙しいときは、近くを通らないようにする。すると、遠くから、
「ハニーーーーーー!!!」
 という叫び声が聞こえてくる。
「ちょっと待っといてー!」
 こちらも大声で応えて、用事を済ます。
「どないしたん、アンジー?」
「あなたの名前はなーに?」
「・・・忙しいねん!」
 ランチの真っ只中でやられると、うんざりするけれど、ランチが終わってみると、
「おもろいやん」
 と思える。
 アンジーと同じテーブルに座った相手が、苦手だった時は大変だ。
「ユミーーーーー!」
 叫び声が聞こえる。振り向くと、アライグマのような目に涙をため、口をブルブルふるわせながら、必死の形相で私を見つめている。
「なに?」
「お部屋に戻りたい!私の食事をボックスに入れて!」
「わかった。他の人のサーヴィスが終わったら、ボックス持ってくるわ」
「私、イングリッシュのレディーが嫌いなの!お部屋に戻りたい・・・」
 隣に座っているジュディーだ。いい人だけれど、思ったことをハッキリ言うので苦手なのだろう。泣くほどのことではないと思うけれど、アンジーにとっては泣くほどのことらしい。とはいえ、私たちサーヴァーが彼女の車椅子を押して、部屋へ連れて行くことはできない。仕方がないので、介護人が仕事をするステーションの横に移動させる。
「介護人も忙しいから、ここで待っといて」
 しばらくして様子を見に行くと、廊下の端っこに停めた車椅子を自力で動かし、廊下の真ん中にいる。その表情を見ると、危険が間近に迫っている人のようだ。まるでホラー映画だ。
「どないしたん?」
「誰もいない!介護人が戻ってこない!こんなところにいるのはイヤだ!」
「ほんなら、ダイニングルームに戻る?皆おるで」
「彼女のところに戻るのはイヤだ!」
「他の人のテーブルにおればええやん」
 アンジーの毎日はドラマチックだ。
 そんなアンジーが恋をした。お相手は新しい住民のビルだ。温厚そうな男性で、アンジーが好きになるのもわかる気がする。ところが、アンジーが恋をすると、我々サーヴァーがさらに忙しくなる。
「ユミ、彼のテーブルに連れて行って!」
「ユミ、彼のオーダーは取った?」
「ユミ、彼は何をオーダーしたの?」
「ユミ、彼のオーダーが遅い」
「ユミ、彼に飲み物を聞いてあげて」
「ユミ、彼に砂糖をあげて」
「ユミ・・・ユミ・・・ユミ・・・」
 彼のために動けないアンジーは、代わりに私たちを動かす。
 ビルは何も聞いていないし、何も求めていないけれど、アンジーは彼のために一生懸命だ。
「彼女はね、私のために何でもしてくれるのよ。なにかあれば、彼女に言いなさい」
 自慢気にビルに言っている。
 アンジーがひとりいるだけで、住民が10人いるくらいの忙しさだ。恋をすると、さらに2倍の忙しさだ。
 雪が降り始めた日から、私は朝食から夕食までずーっと働いている。
「ユミ、体に気を付けてね」
 私のことを気遣ってくれる住民は多い。けれども、恋するアンジーはそれどころではない。彼女は、恋愛ドラマのヒロインなのだ。
「ユミ~!!!」
 いつも以上に、アンジーの声がダイニングルームに響き渡る。といっても、この声が聞こえなくなる方が心配なので、アンジーの恋を行方を楽しく見守ろう。

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るるゆみこ
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