ロスアンジェルス暴動 #2
1965年、ロスアンジェルスのワッツ市で暴動が起こった。
ワッツ暴動⇩
ワッツ暴動後、政府は壊滅したワッツ市を放置した。
暴動の原因は、人種差別や警官の暴力に加え、粗末な住宅施設、生活環境や教育環境の悪さだと指摘されたにも関わらず、政府、ロスアンジェルス市は変わらなかった。
けれども、「クラブ」は変わった。
ギャングの誕生
「クラブ」は、黒人コミュニティを守るために結成されたグループだ。
その誕生は、1940年代後半にさかのぼる。
1948年、最高裁判所が、黒人に対する住居隔離制限を禁止した。
終戦後、ワッツの環境は悪化の一途をたどっていた。
隔離制限が禁止されたことで、黒人の多くがワッツ郊外へ移住した。
ところが、白人ギャングは、これを許さなかった。
黒人が購入した家や土地を爆破し、黒人移住者を攻撃した。
ロスアンジェルス警察も、白人ギャングをサポートした。
これに対抗してできたグループが「クラブ」だ。
そして、この「クラブ」が、ストリートギャングの始まりだ。
1960年代は、ワッツ以外の都市でも暴動が起こっている。
1964年はニューヨークのハーレム、1967年はデトロイト、1968年はシカゴだ。
ちょうどその頃から、「ブラック・パワー・ムーブメント」と呼ばれる、政治的活動が全国的に盛んになった。
これらの活動は哲学的要素を含み、黒人の政治的、社会的、経済的権利の獲得を目指していた。
ギャング(クラブ)は、ブラック・パワー・ムーブメントの活動組織、ブラックパンサー党に加入したり、USオーガニゼーションなどの政治的組織を形成した。
ブラックパンサー党は、暴力主義を提唱したけれど、コミュニティー再建にも尽力した。
これら活動組織のパワーを恐れ、組織全滅のためにFBIが作ったプログラムが、「コインテルプロ」だ。
このプログラムでは違法手段もウェルカムだ。
危険とみなした人物を排除するために犯罪をでっちあげ、無罪を証明する証拠を隠滅し、投獄、殺害した。
全国で活躍する295人中233人の党員、全体の8割が、コインテロプロのターゲットだった。
シカゴにも、カリスマ的リーダーが存在した。
フレッド・ハンプトンだ。
若干20歳で、ブラックパンサー党のシカゴ支部リーダーになった彼は、サウスサイドのギャング数千人と、ブラックパンサー党を合併しようとした。
成功すれば、全国のブラックパンサー党の約2倍のメンバーを持つ、巨大組織ができていた。
ところが、あともう少しというところで、FBIによって殺害された。
党の活動をしていたダンナのおじさんも、このプログラムのターゲットだった。
真夜中に侵入した何者かに、おじさんとおばさんは殺害された。
警察やFBIが行った証拠はないけれど、殺害だけを目的にしている部屋の様子から、おそらく間違いないらしい。
話はサウスセントラルに戻る。
1969年、LAのブラックパンサー党のリーダー2人も殺害された。
1970年までに、サウスセントラルで活躍していた政治組織の、ほとんどのリーダーが逮捕、もしくは殺害された。
その結果、若者たちの模範となる大人がサウスセントラルから消えた。
その頃のアメリカ経済は、製造業からサーヴィス業に移行していた。
黒人コミュニティにサーヴィス業はなく、白人コミュニティで黒人が採用されることもない。
サウスセントラルには、仕事も教育施設も、指南する大人もいなかった。
こうして、若者たちが組織するストリートギャングが増加した。
頭角をあらわした人物が、15歳のレイモンド・ワシントンだ。
1969年、元祖アフリカンアメリカン、史上最大、最悪のストリートギャング「クリプス」の創始者だ。
レイモンドに影響を受けた他のギャングは、「セット」と呼ばれる、クリプスの分家を結成した。
その一方で、クリプスに対抗するグループも結成された。
1972年にできた「ブラッズ」だ。
レイモンドは、ストリートギャングの犯罪は強盗まで、喧嘩はフィストファイト(殴り合い)のみという考えを持ち、ナイフや拳銃の使用を嫌った。
強盗や喧嘩も、どうしようもない場合のみだ。
とはいえ、サウスセントラルの貧困はどうしようもなく、強盗せずに生きていくことは不可能だった。
1974年、レイモンド自身が、強盗で逮捕、懲役5年を科せられた。
服役を終えて戻ってきたレイモンドがサウスセントラルで見たものは、制御不能になった若いギャングだった。
分家は激増し、戦いには拳銃の使用が当たり前になっていた。
レイモンドは、分家をまとめ、無意味なギャング同士の戦いを中断させようとした。
けれども1979年に、ストリートで立ち話をしているところを射殺された。
その後1982年までに、サウスセントラルに新しく組織されたギャングは100を超えた。
ワンブロック毎に、異なるギャングのテリトリーがあり、敵に遭遇せずに、町を縦断することは不可能だ。
ガスステーションで、ガスを入れるのも命がけだ。
万が一、対抗するギャングと鉢合わせになった場合は、決して背中を見せず、互いの目を見つめ、
「お前と戦う気はない」
という意思を伝える。
同意が得られたときのみ、平和にその場を立ち去ることができる。
サウスセントラルで、貧しい黒人コミュニティで生きる目標は、”生き残る”ことだった。
その状況はさらに悪化する。
1981年、クラック(コケイン)がサウスセントラルに密輸される。
この密輸を裏で支援したのがCIAだ。
CIAは、大統領直属の監視下で活動する情報機関だ。
クラックの密売は、「コントラ」と呼ばれるニカラグア共和国(中米)の反政府組織の資金調達のために行われた。
CIAは、コントラが米国内で密売するルートの開拓を黙認し、支援した。
その事実は政府によって否定されたけれど、CIAがコントラと関係していること、CIAとFBI(司法省)の間で、互いに不正を調査しないという密約が交わされていたことが、後にわかった。
クラックは粉末のコケインよりも低価格の上、体内への吸収が早く中毒になりやすい。
ドラッグディーラーにとっては最高の商品だった。
サウスセントラルに持ち込まれたクラックは、コミュニティーを破壊しながら、東へ東へと、あっという間に広がった。
「クラックがLAに入って来なければ、家族や町はここまで破壊されてなかった」
サウスセントラルの住民は言った。
「黒人コミュニティがホンマにボロボロになったのは1980年以降や。
クラックが入ってくるまでは、まだマシやったで」
ダンナも話していた。
警察は、ドラッグ所持の罪でギャングメンバーを次々と逮捕した。
ギャングの行き着くところは刑務所か死だ。
その頃、サウスセントラルで生まれた男の子の70%以上が父親を知らずに育っている。
子供たちのスーパーバイザーはストリートにいる大人、ギャングだ。
残された母親も、子供たちに愛情を与える余裕などない。
彼らは、愛を与えられることも、与えることも知らず、己がなに者かすら知らずに大人になった。
息子が母親にドラッグを売る。
家族全員がドラッグディーラーという家庭も珍しくない。
サウスセントラル、黒人コミュニティでは、この状態が何世代にもわたって続くのである。