Brown v. Board of Education(ブラウン判決、ブラウン対教育委員会裁判)
アメリカの分離教育撤廃に至るまでの、黒人たちの戦い、白人至上主義者の抵抗についてを書く、プチシリーズ。
第一弾は、Plessy v. Ferguson(プレッシー対ファーガソン裁判)でした。
第二弾の今回は、Brown v. Board of Education(ブラウン判決、ブラウン対教育委員会裁判)です。
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1896年、Plessy v. Ferguson裁判で、"分離すれど平等"が認められた結果、ジム・クロウ法がサポートされた。
KKKの活動は、さらに激しくなり、多くの黒人が殺害された。
約60年後の1954年、激しい人種差別に耐え続けた黒人が、平等な権利を求めて、再び戦いに挑んだ!!
Brown v. Board of Education(ブラウン判決、ブラウン対教育委員会裁判)だ。
1951年、NAACP(全米黒人地位向上協会)は、分離教育制度廃止を求めて、カンザス州トピカの教育委員会を集団訴訟することを決定した。
原告は、トピカの小学校に通う、20名の子供たちの親13名だ。
この年の秋、13名の親は、家から一番近い白人小学校へ、新学期の入学手続きに向った。
原告のひとり、Oliver Brown(オリヴァー・ブラウン)は、7歳になる娘のLinda(リンダ)の手をひいて、家から7ブロック先の小学校へ訪れた。
Lindaはこれまで、この小学校の手前にあるバス停から、わざわざバスに乗り、黒人小学校へ通っていた。
彼女は、この日のことをよく覚えている。
小学校は巨大で、入り口の階段を上がる時、
「怖い!」
と感じた。
パパが校長先生と面会している間、彼女は部屋の外で待っていた。
しばらくすると、パパの声が次第に激しくなってきた。
次の瞬間、Lindaは、部屋から飛び出してきたパパに手を引かれて、家に連れ戻されていた。
友達と一緒に、この学校に通うんじゃなかったの???
小さなLindaには、何が起こったのか、わからなかった。
校長先生は、Lindaの入学を拒否した。
同様に、他19名の子供たちも、それぞれ訪れた小学校で、入学を拒否された。
集団訴訟の準備は整った。
NAACPに訴えられた、トピカ教育委員会は反論した。
「白人小学校と黒人小学校は分離しているけれど、建物、教師、カリキュラムはほとんど同じ。分離すれど平等に違反していない!」
とはいえ、建物のクオリティだけでも、随分違う。
誰の目からも不平等だ。
けれども、地方裁判所は教育委員会を支持した。
NAACPは意義を申し立て、このケースを最高裁判所まで持ち込んだ。
これはカンザス州の話だ。
実は、サウスキャロライナ州、デラウェア州、ヴァージニア州、ワシントン特別区からも、同様の訴訟が起こっていた。
これら5つの訴訟の中で、ヴァージニア州だけは、親ではなく、子供たちによるものだった。
ヴァージニア州のモートン高校は、プリンスエドワード郡にある唯一の黒人学校だ。
生徒は、ベニヤ板とタールペーパーで建てられた教室に詰め込まれていた。
教室に配管はなく、冬場は薪を燃やして暖を取り、雨が降ると、傘をさして授業を受けた。
体育館、カフェテリア、実験室、運動場など、もちろんない。
教科書は白人学校からのお下がりだ。
1951年4月23日の朝、モートン高校に通うBarbara(バーバラ)は、
「白人学校の施設と比べて、私たちの学校は劣悪だ!
教育委員会が同じ設備を完備した、新しい学校を建ててくれるまで登校しない!ストライキだ!」
と決意した。
この計画は、校長先生に知られることなく進めなければならない。
Barbaraは、
「学生がダウンタウンでトラブルに巻き込まれました!」
と校長先生に嘘をついた。
校長先生がダウンタウンへ行っている間に、彼女は全校生徒を集めて、その計画を伝えた。
ほとんどの生徒が、彼女に同意し、その日のうちにストライキが始まった。
「新校舎を作れー!」
「タールペーパー小屋なんか壊してしまえー!」
学校内外に張り紙をし、プラカードを掲げ、裁判所まで行進した。
すっ飛んできた校長先生が言った。
「君らが学校に戻らない限り、なにも起こらないぞ!」
けれども、子供たちの意思は固い。
さらに、この計画を実行する際、BarbaraはNAACPに、その旨を伝えていた。
そのタイミングは実によかった。
NAACPは、不平等の元凶となっている「分離すれど平等」を攻撃するために、様々な戦術を企てているところだった。
けれども、彼女の計画を知ったNAACPは、「分離そのものが不平等」という大きなトピックではなく、「分離教育は不平等」という点で攻撃できることに気付いた。
ストライキ3日目の4月25日、NAACPのメンバーが、事情を聞きにやってきた。
「新校舎の建設だけではたりない。我々は白人と黒人に分離された学校の統合を目指そう!」
メンバーは、生徒、教師、両親たちを説得した。
・・・白人至上主義に何をされるか怖い。
けれども、子供たちに優れた教育を受けさせたい。
ここで戦わなければ子供たちの子供、その子供たちの子供まで、人種差別は続くのだ。
白人教育委員会を訴えるため、生徒や親たちが次々と同意し、原告は200人まで膨れ上がった。
彼らのストライキは2週間継続した。
しかし、このことが報道されると、全米からプリンスエドワードにKKKが集まってきた。
黒人学校の向かえにある、アスレチックフィールドが放火された。
常に危険にさらされるようになったBarbaraは、アラバマ州モンゴメリーのおじさんの家に連れて行かれた。
彼女はその後、バージニア州には戻らなかった。
1954年5月17日、最高裁判所は、5つのケースをひとつにまとめ、Brown v. Board of Education(ブラウン判決、ブラウン対教育委員会裁判)として裁判を行った。
原告の数は200名以上、すべてNAACPが資金を提供した。
原告を代表し、教育委員会の弁護士たちと戦った人物が、NAACPの首席弁護人、Thurgood Marshall(サーグッド・マーシャル)だ。
彼は後に、大統領に任命されて、アフリカンアメリカン初の最高裁判所判事になる人だ。
最高裁判所の判決は・・・
「教育機関における人種隔離は不平等!!!」
9対0でNAACPが圧勝した!
Plessy v. Fergusonから約60年、ついに、「分離すれど平等」が覆された!!!