非暴力による戦い ②
1954年5月17日、「ブラウン判決」により、南部の人種差別を合法としてきた”分離すれど平等”が覆された。
そして、”教育機関による人種分離は不平等!”と認められた。
これを機に、黒人活動家組織が動き始めた。
彼らの抗議手段は”非暴力”だ。
スタートとなった事件が、アラバマ州で起きた「モンゴメリー・バス・ボイコット」だ。
続いて各地で抗議運動が起こった。
中でも有名な事件が、次の3つだ。
①リトル・ロック・ナイン
②グリーンズボロ・フォー
③フリーダム・ライダーズ
これら名称は、公民権獲得のために、自らの命を危険にさらした若者たちを示している。
リトル・ロック・ナイン
アーカンソー州で起きた事件。
”リトル・ロック・ナイン”は、セントラル・ハイ・スクールに入学した9人の黒人学生を示している。
ブラウン判決に伴い、アーカンソー州でも学校統合を行うことを決定した。
ところが、当初は穏健派だった州知事のフォーバスは、次期選挙で再当選するために、白人至上主義に寝返った。
そして、黒人学生の入学を阻止するために州兵を送り込んだ。
1957年9月4日の入学初日、学校周辺で待ち構えていたのは、統合に反対する州民や、生徒の母親たちだ。
そして州兵は、子供たちが校舎に入れないよう、彼らの前に立ちはだかった。
9月5日、NAACPは、子供たちを守るために裁判所へ行き、国のサポートを要請した。
ところがフォーバスは、アイゼンハワー大統領の説得にも応じない。
9月20日、裁判所の命令により、州兵が撤退、それに代わり市警察が警備についた。
けれども暴徒の数は千人以上に膨れ上がっている。
リンチにかける勢いの暴徒たちから、子供たちをどうにか避難させることに成功したけれど、市警察の手に負える状態ではない。
ナショナルテレビは、この様子を報道した。
その結果、セントラルハイの学校統合は、国内外から注目を浴びることになった。
これまで傍観していたアイゼンハワー大統領も、行動を起こさざるを得ない。
これは一部の地域の出来事で、アメリカ全体を示す事件ではないことを、世界に示さなければならない。
9月25日、大統領が派遣したナショナルガードに護衛され、9人は無事に入学を果たした。
学園内でも、常に護衛が付いた。
けれども、バスルームやロッカールームは別だ。
ひとりになる場所では、常に白人生徒による暴力が待っていた。
1958年2月、暴力に耐えかねたミニージーン・ブラウンが中退した。
けれども、その他の8人は耐え抜いた。
そして1958年5月、一番年長だったアーネスト・グリーンが卒業した!
選挙に再選したフォーバス知事は、1959年9月から、リトルロック市の統合指定校3校すべてを、1年間クローズした。
学校の再開を待たず、別の学校へ行った人もいたけれど、リトル・ロック・ナイン全員が、高等教育を完了した。
詳しくは以前書いた記事があるので、興味のある方はこちらをご覧ください!
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次回は「グリーンズボロ・フォー」についてでーす。