【短編小説】シュレディンガーの檻【イソップ寓話:肉と犬】
シュレディンガーの檻 ~スクロールの果てのワタシへ~
青白い光が犬井真琴の顔に落ちる。
その光は、彼女の表情に不自然な陰影を生み出していた。
真琴はスマートフォンの画面を無意識にスクロールする。
親指の動きは、まるで呪文を唱えるかのように規則的だ。
「またリリー...」
その呟きには、羨望と苛立ちが混ざり合っていた。
画面に映るのは、満開の桜の下でピクニックを楽しむリリーの姿。
「#春爛漫 #親友とお花見」というハッシュタグが、挑発的に真琴の目を捉える。
真琴は自身の最新の投稿を確認した。
大学近くの人気カフェでの一杯。
「#おしゃれカフェ #インスタ映え」というタグを付けている。
「いいね!」の数は50ほど。
(またリリーより少ない...)
その数字が、真琴の心に小さな亀裂を生んだ。
リリーの投稿は、常に真琴の一歩先を行く。
それは手の届きそうで届かない、蜃気楼のようだった。
「私だって...」その呟きは、決意というより祈りに近かった。
リリーに追いつく。
いや、追い越す。
そうすれば、きっと幸せになれる。
真琴はそう信じて疑わなかった。
あるいは、信じたかった。しかし、その瞬間、彼女は気づかなかった。
自らの手で、見えない檻の扉を閉ざしてしまったことに。
「マコト、大丈夫?最近ちょっと様子が...」
高校時代からの友人であるヒロの心配そうな声が、マコトの耳に届く。
しかし、彼女の意識は既に別の場所にあった。
スマートフォンを操作する指に力が入る。
「よし、これで完璧」
画面には、高級ブランドのバッグをテーブルに乗せ、カフェでくつろぐ真琴の姿が映っていた。
(別に欲しかったわけじゃないのに...)
投稿するや否や、「いいね!」の数が増えていく。
真琴の胸に、ほんの少しの高揚感が広がる。
それは、麻薬のような一時的な快感だった。
「リリー、見てる?私だって...」
しかし、その瞬間、リリーの新しい投稿が流れてきた。
図書館で勉強に励む友人たちとリリー。
「#テスト勉強 #頑張る仲間たち」瞬く間に「いいね」が増えてゆく。
真琴の表情が曇る。
心の中で、焦りと嫉妬が渦を巻く。
それは、彼女の理性を少しずつ蝕んでいった。
(なんで、いつも先を行くの...)
真琴は、クレジットカードの明細を確認した。
残りの利用可能額はわずか。
でも、これで何か面白い投稿ができるはずだ。
そう自分に言い聞かせる。それが自己欺瞞だと知りながら。
そうして、真琴の無理な追跡は続いていった。
大学の講義も、アルバイトも、友人との付き合いも、すべてが色褪せていく。
頭の中はリリーのことでいっぱいだった。
もはや現実世界は、ぼやけた背景のようになっていった。
「マコト!いい加減にしなさい!」
母親の怒鳴り声が、アパートの一室に響き渡る。
テーブルの上には、利用限度額に近づいたクレジットカードの請求書と、大学からの成績不振の警告。
そして、スマホの画面には相変わらず魅力的なリリーの投稿。
最新の投稿は、家族との団欒の様子。
「#家族の時間 #感謝の気持ち」
真琴は膝をつき、うずくまった。
現実と虚像の狭間で、彼女の心が引き裂かれていく。
自己の存在が、粒子と波の二重性を持つかのように、曖昧になっていく。
(私、何してるの...)
その自問は、虚空に消えていった。
真琴は最後の賭けに出た。高級レストランでの誕生日ディナー。
実際は、友人に頼み込んで店内での撮影だけさせてもらったもの。
しかし、料理の撮影は許可が下りず、仕方なく「飯ログ」から拾ってきた同じ店の料理画像を投稿に混ぜ込んだ。
「#特別な日 #最高の誕生日」というキャプションと共に投稿したその写真は、瞬く間に「いいね!」を集めた。
しかし、その喜びは、砂上の楼閣のように脆かった。
投稿から数時間後、コメント欄が炎上し始めた。
「待って、この料理の写真、飯ログで見たやつじゃない?」
「嘘つき!ネットの画像使い回してるだけじゃん」
SNS上での真琴への批判は、瞬く間に拡散していった。
彼女の胸の内では、言い訳と後悔が渦を巻いていた。
(みんな、違うの...私は...私は...)
真琴の心の中で、言葉が渦を巻く。
自己弁護と自己嫌悪が交錯し、その狭間で彼女の本当の姿が溶解していくようだった。
そう考えた瞬間、真琴の携帯が震えた。
通知を見て、彼女の顔から血の気が引いた。
リリーからのメッセージだった。
「嘘をついてまで得たかったものは何ですか?『いいね!』のために、どれだけのものを犠牲にしたのでしょうか。」
真琴の視界がぐにゃりと歪んだ。
リリーの言葉は短かったが、鋭い刃となって彼女の心を抉る。
それは、彼女が築き上げてきた虚像の城を一瞬にして崩壊させる力を持っていた。
(なによ...そんな言い方しなくたっていいじゃない...あなたこそどうなの...)
憧れと嫉妬、怒りと自己嫌悪が、真琴の中で渦を巻いた。
ずっと追いかけてきたリリー。自分より常に一歩先を行き、輝いて見えた存在。
その人物からの非難の言葉に、真琴は激しい矛盾を感じた。
真琴は、自分の投稿を見直した。
そこには、本当の自分ではない、作り上げられた「理想の自分」がいた。
その姿は、今や歪んだ幻のようにしか見えない。
まるで、シュレディンガーの猫のように、観測されるまで真偽不明の状態で存在していた自分の姿が、今、その正体を現したかのようだった。
怒りと後悔が波のように押し寄せてきた。真琴の頭の中は真っ白になり、指が勝手に動き出した。
(もういい...全部消えてしまえ!)
衝動的に、彼女はSNSのアカウントを削除するボタンを押した。
確認画面も読まずに「はい」を連打する。
その行為は、自らの存在を否定するかのようだった。
画面が暗転し、そこに映ったのは疲れ果て、やつれた若い女性の姿。
それは、偽りの仮面を脱ぎ捨てた、本当の真琴の姿だった。
観測された瞬間に、量子の重ね合わせが崩壊するように、虚像と現実が一つに収束した瞬間だった。
アカウント削除から幾日か経った頃、真琴の指は無意識のうちにスマートフォンを求めていた。
(リリーは今頃、どんな世界を映し出しているのかしら...)
その思考が脳裏を過ぎた瞬間、真琴は我に返った。
もはや自身のアカウントは存在せず、リリーの投稿を覗き見ることすらできないはずだ。
その事実が、彼女に奇妙な解放感と喪失感を同時にもたらした。
しかし、何かが引っかかる。
まるで記憶の奥底に沈んだ違和感が、静かに蠢いているかのようだ。
真琴は、検索欄にリリーのアカウント名を入力した。
結果は「見つかりません」という冷たい文字。
(おかしい...これは何かの間違い?)
疑念に駆られ、真琴は別のSNSでも探索を試みた。
しかし、どこにもリリーの痕跡は見当たらない。
(まさかリリーも私と同じ様に…?でも、全くそんな様子はなかったはず...)
違和感は日を追うごとに増幅し、やがてそれは自己の存在に対する根源的な問いへと変貌を遂げていった。
数日後、真琴は図書館でヒロと再会を果たした。
「真琴、元気になった?」
ヒロの声には、単なる心配を超えた何かが込められていた。
真琴は顔を上げ、久しぶりに誰かの目を真っ直ぐに見つめた。
「ええ...なんとかね。でも聞きたいことがあるの。ヒロ、リリーって知ってる?」
ヒロは首を傾げた。
「リリー?誰のこと?」
その反応は、真琴の中に新たな疑問の種を蒔いた。
「えっ、あの有名なインフルエンサーよ。私がずっと追いかけていた...」
「ごめん、聞いたことないなぁ。真琴の知り合い?」
(おかしい...私だけの幻想じゃなかったはず。みんな知っていたはずなのに...)
「リリーって...本当に存在していたのかしら...」
ヒロはしばらく黙って、真琴の表情を観察していた。
そして、優しく微笑んだ。
「SNSって難しいよね。現実の自分と、SNS上の自分って、どうしても違ってくるし...」
真琴は少し驚いた顔でヒロを見た。
「うん...そうなのよ。私、ずっとそのギャップに悩んでた気がする」
ヒロは頷いた。
「そういえば、真琴最近SNSやってないよね。少し距離を置くのも、案外いいかもしれないよ。現実の自分を見つめ直す良い機会になるんじゃない?」
その言葉に、真琴は深く考え込んだ。
リリーの投稿。一見、真琴が追いかけていたのは表面的な華やかさだけのように思えた。
しかし今、あらためてそれらの投稿を思い返すと、真琴はあることに気づいた。
満開の桜の下でピクニックを楽しむ友人たち。
図書館で勉強に励む仲間たち。
家族との団欒の様子。
(私が本当に欲しかったのは…)
リリー。それは、真琴が無意識のうちに求めていた自分の願望を映し出す鏡だったのではないか。
真実は藪の中。
しかし、それはもはや重要ではなかった。
その瞬間、真琴のスマホが震えた。
画面に浮かんだのは、かつて彼女を縛り付けていた幻影のような通知。
「 リリーさん があなたをフォローしました」
一瞬の戸惑い。しかし、再度確認すると、その通知は消えていた。
まるで、過去の亡霊が微かに姿を現し、そして消え去ったかのように。
真琴は静かに微笑んだ。
その笑顔には、皮肉な自己認識と、新たな決意が滲んでいた。
(リリーが本当にいようといまいと、もう関係ないわ)
SNSの向こう側に何があるかは、もうどうでもよかった。
デジタルの檻を抜け出した先の、広大な現実世界。
それは、無限の可能性に満ちあふれている。
しかし、真琴の心の片隅では、リリーの幻影が微かに揺れている。
彼女の中に永遠に残り続ける、甘美な毒のように…。
【あとがき】
この作品は、イソップ童話「肉を運ぶ犬(肉と犬)」という作品のアレンジです。よく絵本になっているので、見たことがある方もいるんじゃないでしょうか。
現代はネット社会。誰しもネットと現実の狭間を行き来している時代です。でも、そんなネットの中にいる人物は本当に現実世界の人物なのでしょうか?貴方がフォローしている人物は本当に存在しますか?いや、むしろ貴方の中だけに存在するのではないですか?
そんな私も…。