梅枝の縁、蓮台の絆(前半のみ・完全版掲載とともに削除予定)
必読注意事項
本頁はミュージカル刀剣乱舞について、ボイスドラマ「本丸花暦」、公演「陸奥一蓮」「つはものどもがゆめのあと」「東京心覚」「静かの海のパライソ」「春風桃李巵」「江水散花雪」「花影揺れる砥水」「参騎出陣」等の物語の内容にふれながら考察するものです。その他の公演内容に多少ふれることもあります。また、原案ゲームや他のメディアミクス作品にふれることもあります。ネタバレに御注意ください。
飽くまで個人の解釈、見解であり、絶対唯一の正解とするものではありません。
結論から言います。本考察では、三日月宗近と鶴丸国永の関係性は疑似的な恋愛関係もしくは疑似的な夫婦関係であるとの暫定結論を導いています。
上の結論については、飽くまで物語のキャラクターどうしの関係性に関するものであり、現実の生身のキャストさんとは一切関係ありません。生身のキャストさんどうしの関係性と混同する意図も認識も、全くありません。
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はじめに
「陸奥一蓮」では、こんなシーンがある。
二度目の出陣に臨む際、鶴丸国永と山姥切国広が、風にはこばれてきた梅の香りに微笑むシーンだ。ささやかなシーンだが、「本丸花暦」のボイスドラマを聴いていればピンとくるようになっている。この時、二振りが微笑んだのは、かつての三日月宗近を思い出したからだ、と。
「本丸花暦」(以下、「花暦」)とは、公式ファンサイトプレミアム会員限定コンテンツとして2023年1月~2024年3月まで更新・公開されていたボイスドラマシリーズである。¹
その最終話の第13話「梅」は2024年2月27日公開となっており、時期的にも内容的にも、2024年3月~5月の公演「陸奥一蓮」にむけた、助走を企図したコンテンツであったと思われる。三日月宗近や加州清光、蜂須賀虎徹といった古参メンバーが久々に出演する「陸奥一蓮」への制作陣の気合の入れようがうかがえる。
制作陣が「陸奥一蓮」を前に、「花暦」で描きたかったのは何なのか。そして、「陸奥一蓮」及びそれまでの物語は何を描いてきたのか。本考察は三日月宗近と鶴丸国永の関係性に焦点を絞り、その意図の一端を読み解こうとするものである。
まずは本題に入るにあたって、「花暦」のエピソードのうち、三日月と鶴丸の関係性を読み解くために必要なシーンのみを抜き出して以下に要約する。
Ⅰ.月下梅樹の思い出
第12話「冬牡丹」
第13話「梅」
この二つの小話は、三日月宗近と鶴丸国永の深い因縁や、二人を気にかける山姥切国広の立ち位置をよくあらわしている。特に第12話「冬牡丹」は、「陸奥一蓮」で描かれた古参の三人の関係性の描写を補強するエピソードであると言えよう。また、「陸奥一蓮」において、なぜ鶴丸国永と山姥切国広が梅の香りに微笑んだのか、その背景を明かすものでもある。
以上をふまえ、さて、話をここでいったん刀ミュの外に目を向ける。
本考察の肝となる、ある和歌を紹介したい。
古今和歌集「巻十五 恋歌五」に収録されている最初の歌で、詠み人は在原業平である。
なぜ「梅」なのか――古今和歌集 巻十五 恋歌五 747
このように「花暦」第13話「梅」と古今和歌集747の歌を並べると、状況がかなり類似していることに気が付くだろう。両者の共通性をより明確にするために、二つの状況を構成要素に因数分解して整理してみよう。
まず、在原業平の歌とその詞書から。
①一月の、
②梅の花盛りに、
③月の傾くまで、
④月下、
⑤今は音信不通の、
⑥恋人と過ごした昔の思い出に耽った。
これが在原業平が歌を詠んだシチュエーション。
一方、「花暦」第13話「梅」における鶴丸国永はどうか。
①一月に²³
②梅の木のもとで
③「夜更け」になるまで⁴、
④月を見ながら、
⑤今は音信がほとんどない、
⑥三日月宗近との昔の思い出に耽った
いかがだろうか。以上のような類似や一致は、全くの偶然とは一蹴しがたくはないだろうか。少なくとも筆者は、この符号を意図された引用によると考える立場に立つ。
ところで「花暦」第13話「梅」は、数ある古典のうちからなぜ、古今和歌集の在原業平の歌に題材を採ったのだろうか。実は、その点にもいくつかの必然が認められる。
刀ミュの物語では人の想いや心をあらわす手段・文化として「歌」(和歌・歌唱)の価値が重んじられるのは、ファンであれば誰しも承知するところ。そして歌の精神を伝える古文として「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。……」⁵がしばしば引かれるが、この出典こそが古今和歌集の「仮名序」なのだ。しかも引用されるのは、寸劇を交えた歌合戦という特殊な趣向を凝らして公演された「歌合2019」や、今回の「本丸花暦」から直接につながる「陸奥一蓮」においてである。「歌」――人の想いを表現する「和歌」や「歌唱」の力を信じてきたミュージカル・刀剣乱舞において、和歌文化に多大な影響を及ぼしたとされる古今和歌集「仮名序」には、特別な重み付けが与えられていると考えるべきだろう。
また、詠み人の在原業平は三十六歌仙の一人でもある。三十六歌仙とは、説明するまでもなく、歌仙兼定の号の由来となった歌人達のことである。刀ミュ本丸のはじまりの一振りであると推定される歌仙兼定の呼称にちなんだ歌人として在原業平の歌を選んだとも考えられる。
以上のこれら複数の符号を考えると、「花暦」の「梅」には、何らかの制作上のねらいを以って、古今和歌集収載の在原業平の歌⁶が引用されていると推察できる。
Ⅱ.蓮台の半座を分かつ仲
ミュージカル刀剣乱舞で初めて「蓮の花」が登場したのは、2018年の「つはものどもがゆめのあと」である。
よく知られているとおり、「この花のように」の歌詞の一部には、文頭の文字をつなげると「一蓮托生」の文字が浮かび上がるギミックが仕込まれている。
より重要な楽曲は、三日月宗近が「悲しい役割」を負った「友」藤原泰衡に蓮の花をわたして約束を交わすシーンでかかるナンバーだろう。ここで歌われたのが「華のうてな2」⑴である。出だしの「頻く頻く 呉れ呉れ」とは、物事がくりかえされる様である。三日月宗近が同じ時代への出陣を何度も繰り返していること、あるいは彼が同じ時間をループしている状態を示唆したものかと解釈できる。「纏う黒き衣 うたかたの役目」とは三日月宗近が歴史を守る己の役割を、はかない黒子役にたとえたものかと思われる。「夢幻泡影」とは世の儚く、実体のないさまのたとえだが、刀ミュにおいて「大河」とされる歴史の流れの歪められやすさを指しているのではないかと捉えられる。「なればこそ」三日月は「舞い続けよう」と続け、歴史を守る守護者の役割を果たし続けなければならないのである。そうしてサビに入ると「半座を分かつ華のうてな 誰が為にそこにある 宿世分かつための 華のうてな」のフレーズが登場する。
要するに、もろい歴史を陰ながら守る「うたかたの役目」を繰り返し演じ、ひとり戦い続ける三日月宗近の孤独を歌った詞であると解釈できる。さらに「つはものどもがゆめのあと」のストーリーをふまえるならば、「悲しい役割」を背負う者を、歴史を守る「うたかたの役目」を務める三日月宗近が自らに投影させて「友」と呼び、その孤独と悲しみを救うために、蓮の台の半座を分かってやりたいという趣旨の歌なのだろう。あるいは、三日月宗近が自身の孤独を救いたいと願っていることをも暗示しているかもしれない。
この「華のうてな」は、2024年の「陸奥一蓮」でアレンジされて計三回もリプライズされることになる。まず、劇中で最初のナンバーとして三日月宗近に「華のうてな~問い」として歌唱される。次に、三日月宗近による「大河に落ちた種~華のうてな」にて、最後に結末の鶴丸国永のアカペラで歌われる。三日月の「大河に落ちた種〜華のうてな」と鶴丸のアカペラでは、「華のうてな2」から「半座分かつ 華のうてな 誰が為にそこにある」のフレーズがそのまま継承されている。
「陸奥一蓮」公演を経て、ミュージカル刀剣乱舞で「蓮」はいよいよ重要性を増している。「つはものどもがゆめのあと」で「蓮」は「悲しい役割」の者=「友」を救済する三日月宗近の信念の象徴であり、「友」を孤独にしないための約束の証でもあった。「陸奥一蓮」ではそれにくわえて、「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」関係性をあらわすメタファとしても機能していくことになる。以下からこの点を検討していこう。
辞書的定義:「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」
ここで改めて「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」のを意味を確認しておく。ただし筆者は仏の教えにも仏教史にも日本史にも昏いド素人であるため、これらの語彙の文化史的側面を読み解くのに適切な史料や研究を知らないし、そのスキルもない。したがって安易ではあるものの、オンライン上で参照できる知識に知見を頼る。
まずは「一連托生」から。
ほか、学研四字熟語辞典、三省堂新明解四字熟語辞典においても、上の小学館デジタル大辞泉と同様に仏教用語としての由来と、そこから転じた運命共同体としての用法が紹介されている。
次に「蓮の台の半座を分かつ」について。この用語そのままでは、出版社編集による信頼できそうなオンライン辞書には記載が見当たらず、複数の教養系の記事でヒットするばかりだった。致し方なく、まずは参考程度に「ことわざデータバンク」にとりあげられている頁を参照してみよう。
次に「蓮の台の半座を分かつ」にこだわらずに表記ブレを許すと、「半座を分ける」「半座を分く」の二つで辞書上の定義が発見できる。このうち精選版日本国語大辞典の「半座を分く」では由来に踏み込んで詳しく伝えているので、こちらを紹介する。
上の「半座を分く」②の意味は「一蓮托生」の語には見られないものだが、「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」は、共に浄土信仰にその由来を求められる同起源の語であることを確認できた。⁷
用法:「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」
次に、どんな場合に使うのか、その用法についてもう少し詳しく検討しよう。ここでは辞書に限らず、「蓮の台の半座を分かつ」「一蓮托生」の語彙を解説する記事を探したところ、複数見つかった。少し長くなるがここでは、比較的信頼できると思われる、小学館の「一蓮托生」の記事を選び、要点を抜き出して引用する。
他の記事も参照するに、上の記事で解説されているのは「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」の用法の一般的な運用と見なしてよさそうだ。以上にみてきたように、「蓮の台の半座を分かつ」にせよ「一蓮托生」にせよ、①運命共同体であること、②夫婦をはじめとする、特別に親しい間柄の絆と縁の深さを示すのに使われてきたことがわかる⁷
ところでこれは完全に余談だが、用法に関して最後に、筆者個人の私的で卑近な例を紹介させてほしい。「蓮の台の半座を分かつ」の典型的な使用例と思われるからである。プライベートなことを明かすと筆者の家は代々、浄土宗を信仰していることになっている。小学生の頃、祖父のn回忌法事にて、お坊さんが祖母を慰めるために「あなたの御主人は、極楽浄土で蓮の台座を半分空けて待っていますよ」と説法するのを聴いたことがあった。多感な時期に聴いたそれが妙に記憶に残り、「夫婦というものは、天国に行っても仲睦まじく、同じ蓮のいすにすわるのだなぁ」などと呑気な童心に、夫婦なるものへの憧憬とともに強く刻まれてしまった。そんな次第で「つはものどもがゆめのあと」の「華のうてな2」を聴いた時、心の底から度肝を抜かれたというわけ。三日月宗近は誰かを救おうとするのと並行して、自らもまた「半座を分かつ」相手を探しているのだろうか?なぜ、黒羽麻璃央さんはあんなにも切々朗々と「半座分かつ 華のうてな 誰が為にそこある」と歌い上げてしまったのか。麻璃央さんの華やかな圧のある歌声で迫られると、気圧されてこちらも泣いてしまうではないか(※褒めてます)。三日月宗近おまえそんなウェットなキャラだったか……?原案ゲームのうぶちかはそんな素振り少しも見せなかったジャン……。防人作戦の謎花占いがそうだったってコト……?「蓮の台の半座を分かつ」はあまり日常生活で聞き馴染みのある語ではないが、要するに今でも特定の文脈において実際に使われることがあるということが言いたかった。御清読ありがとう。
「陸奥一蓮」はどのような物語か?—―「一蓮」の絆と救い
気を取り直してここで改めて「陸奥一蓮」のストーリーを振り返ると、タイトルの「一蓮」にあるとおり、「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」関係性がもたらす救いが、この作品のテーマであることがわかってもらえると思う。
この作品には複数の「一蓮托生」の関係性が登場する。その筆頭が阿弖流為と母禮だ。阿弖流為と母禮の処刑というショッキングなシーンから開幕した本作は、二人が共に朝廷に抵抗し、「蝦夷」の誇りに殉じるために降伏を選び、共に死ぬまでの過程が描かれた。「陸奥一蓮」の物語を歴史上の人物の視点から総括すると、第一義的には阿弖流為と母禮の「一蓮托生」の物語であったと言える。
「一蓮」の関係として描かれた二組めは、「蝦夷」の少年・弥彦とその父(&疑似的に父役となった男性)である。弥彦は父ともども坂上田村麻呂らに殺されてしまうが、その死を三日月宗近に悼まれる。そして死後の旅立ちのイメージの中で、父代わりの男性と共に鶴丸国永の身体に蓮の花でふれ、来世への転生が示唆される。やがて三日月宗近は、浄土に重ねられた、未来の奥州のイメージを見る。そこで弥彦らの生まれ変わりと思しき父子が登場し、子どもは三日月に蓮の花をわたして去っていく。
阿弖流為と母禮、弥彦らは親しい人間と運命を一蓮に分け合うことである種の救済を得る(と三日月宗近は信じたい)。悲惨な死は、一蓮を分け合う相手と共に浄土(≒来世)で生まれ変わることで救われる。このように「陸奥一蓮」では「蝦夷」が迫害された歴史にスポットライトを当てて、彼らの救済を浄土の蓮台の信仰に託している。
ところがもう一組、一蓮を分かち合うことを望みながら、救われなかった者たちがいる。それが三日月宗近と鶴丸国永だ。
阿弖流為と母禮が手合わせする場面を思い出してもらうとわかりやすい。阿弖流為と母禮はうちとけた親しさで以て剣を交えるが、これが山姥切国広の印象的な「影ふたつ」のナンバーとともに、三日月宗近と鶴丸国永の過去の手合わせの記憶にオーバーラップされる。阿弖流為と母禮の「一蓮托生」の関係性に、三日月宗近と鶴丸国永の関係性を重ねたい演出意図は明らかである。
また、鶴丸国永ははっきりと台詞にはしないものの、歌唱や挙動から彼が三日月宗近と一蓮を分かち合いたい心境にあることが推察できる。
冒頭で三日月宗近が「華のうてな~問い」を歌唱した直後、彼と入れ替わりで登場した鶴丸国永は、険しい表情で「分たれた袂」⑵を歌い上げる。歌詞に相手方の固有名は登場しないが、「照らし出してくれたかい」「欠けて満ちる音が聞こえるまで」の詞から、それが三日月宗近であることが示唆されるのである。さらに物語がすすむと、浄土のイメージが演じられる一幕で、三日月宗近がふれた蓮と同じ蓮の一輪に、鶴丸国永がふれるという、さりげない演出がされる場面もある。
決定的なのは、結末で鶴丸が三日月の幻影を見た後に歌う「華のうてな」だろう。鶴丸国永が目を潤ませて(※大千秋楽)歌うフレーズは、「半座分かつ 華のうてな 誰が為にそこにある」。これが「陸奥一蓮」を象徴する節として選んで抜き出されて、鶴丸の涙と共に歌われ、物語が閉じられる意味はきわめて大きい。「華のうてな」は三日月宗近のナンバーであるから、鶴丸国永が半座を分かちたいと願っているのは三日月宗近ということになる。
一方で三日月宗近も、鶴丸国永に特別な期待を寄せている。七振り全員による「己映す鏡」⑶のナンバーの2番では、三日月宗近と鶴丸国永の二重唱になる。鶴丸国永は「鶴丸国永 大倶利伽羅 双騎出陣 ~春風桃李巵~」で「月の裏」=三日月宗近の心の内が見えないことに葛藤を覚えていた。⁸それを今作で三日月宗近は「光あたらぬ欠けた部分 覗き込みたければ近う寄れ」「やっとここまで来たのか もうここまで来てしまったのか」と歌い、鶴丸が追いかけてきてくれるならば、月の見えない部分=心の内を見せるつもりでいた。冒頭で鶴丸が仕込んだ羽を笑顔で見つめていたことからも、鶴丸の追跡を長い間待ち望んでいたことがわかる。
しかし二人は一騎打ちの衝突の後、部分的に和解には至ったものの、互いに「約束」⁹を守ることを確認して、戦場と本丸へと再び別れていくのだった。なぜ、三日月と鶴丸が、阿弖流為と母禮のような一蓮托生の関係に至れなかったのか、その理由は後ほど考察する。
「花暦」のBGM「華のうてな」
この章を閉じる前に、再び話を「花暦」に戻そう。
刀ミュにおける「蓮」に託された表象を踏まえた上で、「花暦」第12話「冬牡丹」と第13話「梅」で使用されていたサウンドトラックについてふれておきたい。
先に紹介した「花暦」第12話「冬牡丹」、第13話「梅」ではそれぞれ、「華のうてな」のインストゥルメンタルトラックがかかる場面がある。
第12話「冬牡丹」では、山姥切国広が、梅の枝を髪に挿した三日月宗近と鶴丸国永を回想するシーンでかかる。
第13話「梅」では鶴丸国永が三日月宗近との思い出に浸る場面でかかる。 そこから「陸奥一蓮」の「月のひとりごと」ピアノ・インストゥルメンタルへと続いていく(この時の「月のひとりごと」のアレンジは、「陸奥一蓮」の山姥切国広の「影ふたつ」の歌唱直後にシームレスにつながる「月のひとりごと」と、全く同曲同アレンジである)。
ここまで見てきたように「華のうてな」は三日月宗近の歴史の守護者としての孤独の精神性、悲しい役割を背負う者を救済する信念、「一蓮托生」「蓮の台の半座を分かつ」関係性をあらわすものであった。
その楽曲が「花暦」の第12話「冬牡丹」、第13話「梅」の両方において、三日月宗近と鶴丸国永の関係性が語られる場面で使用されている。「陸奥一蓮」で「華のうてな」を歌ったのが三日月宗近と鶴丸国永の二人であったことと併せて考えると、楽曲には二人の関係性を暗示するという演出上の意図があると考えられる。
続きは完全版にて。
予定としては、以下のとおりの章及び節を補足予定です。
注釈
ボイスドラマは会員限定コンテンツだったが、後にCD化され、会員限定販売された後、ごく短期間ではあったものの一般販売もされた。したがって、その内容を踏まえた考察を行うことに支障はないだろうと判断したものである。
第1話「梅」は1月に公開され、第12話「冬牡丹」まで毎月ペースを守って公開されていることから、ドラマ中の時季と現実の時季をリンクさせていると捉えるのが妥当だろう。第13話のみ2月27日公開と変則だが、これは「陸奥一蓮」公演をちょうど二週間後の3月12日に控えていたからだと解釈できる。他にもこの本丸の梅は「早咲き」(第1話)であること、「先がけの梅」(第12話)であるとされていること、第1話と第13話ではその年の花当番が新たに任命される節目の時季だと示されていることから、これらを総合すると、第1話「梅」・第13話「梅」ともに、ドラマ中の時季は一月という設定で確定して良いと思われる。
在原業平の歌の詞書に登場する「正月(むつき)」とは一月のこと。ただし当時の太陰暦の一月であるため、現行のグレゴリオ暦に置き換えると約一ヶ月ほど、後ろにズレが生じる。つまりこの歌で詠まれた季節は、現行暦では二月頃に当たるため、「翌年の春」(おそらく同じく「正月」)は梅の開花時期として適当な頃合いと言える。一方で、「本丸花暦」の暦は上の注釈で述べたとおり、現行暦を採用していると考えられるため、第1話・第13話「梅」における一月の時季は、一般的な「梅」の開花時期にしては早い。ところが、「本丸花暦」の「梅」はなぜか、第1話・第12話の両話で「早咲き」「先がけ」という設定をわざわざ御丁寧にも付されている。この余分な設定の不思議は何らかの演出上の意図を感じさせるものだが、仮に現行暦年頭の「一月」と、平安時代の太陰暦上の「一月」とを一致させ、<一月の梅>のシチュエーションを重ねようとしたためではないか、と考えれば合点はいく。
「夜更け」の語彙の一般的な用法に則ると、「月の傾く」時間帯とは微妙にズレている印象である。ただし、ボイスドラマ第13話では「月の傾くまで」と同じ時間帯をイメージさせる「有明の月に咲く梅か」とつぶやく鶴丸の台詞がある(要約参照)。有明の月とは、夜が明けても空に残る月のこと。筆者はこれを、「一月」の時節を重ねるのと同じく、シチュエーションを「月やあらぬ……」の歌に重ねる意図があると考える。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。……(略)」(出典:古今和歌集 仮名序)
実は「月やあらぬ……」の歌は古今和歌集のほかに、在原業平がモデルとされる「伊勢物語」の四段にも収められている。「むかし、東の五条に、大后宮おはしましける西の対に、すむ人ありけり。それを、本意にはあらで、心ざしふかかりける人、ゆきとぶらひけるを、正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。あり所は聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。またの年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(「伊勢物語」 四段「西の対」)。このように、大筋は古今和歌集と変わりないが、「伊勢物語」では男がより情緒的になり、泣きながら「去年」を思い出すというニュアンスの相違がある。
とはいえ、筆者の主観では、厳密にいうと両語には用法に若干の違いがあるように思う。日常生活でもよく使われる「一蓮托生」の用法はどちらかというと、善悪如何にかかわらず強力な結束によって運命を共にする行動面≒<心中>的性質の方に力点があると感じる。それに対して「蓮の台の半座を分かつ」の方は、極楽浄土で同じ蓮台に生まれ変わるほどに強い結びつき、<関係性>の方を表現するのに主眼があるとの印象を抱いている。
「鶴丸国永 大倶利伽羅 双騎出陣 ~春風桃李巵~」では「月の裏」には意味が重ねられている。決して見えない「月の裏」(見えない三日月の本心)=「月の浦」(月の海)と解釈できる。詳細はⅣ章参照。
三日月宗近と鶴丸国永が交わしている「約束」とは何か、巷では様々な推測や考察がなされている。鶴丸の「主が悲しんでる!爺は約束を守るんじゃなかったのかよ!」の台詞を素直に解釈すると、「主を悲しませない」ことが約束そのものであるか、約束の重要な効果となるものと考えるのが自然ではないだろうか。この本丸の審神者は「静かの海のパライソ」での鶴丸国永とのやり取りをみてもわかるように、刀剣男士に負担をかけることに心を痛める刀想いの性格である。歌仙兼定を失った際にはひどく悲しんだだろうことは想像に難くない。また、山姥切国広は「江水散花雪」で大包平に、隊長の役割は部隊員を全員無事に帰すことだと語っている。これらの描写の積み重ねから推測するに、「主を悲しませないために、もう二度と本丸の誰も失わないよう、本丸をしっかり守る」というような趣旨の約束を交わしていたのではないか。ところが三日月宗近の現況はというと、ほとんど所在不明の状態で主に心配をかけまくっているわけで、その点が鶴丸の批判の槍玉として選ばれたわけである。
出典
⑴「華のうてな2」
作詞:浅井さやか(One on One) 作曲・編曲:YOSHIZUMI
⑵「分たれた袂」
作詞:浅井さやか 作曲・編曲:YOSHIZUMI 振付:桜木涼介
⑶「己映す鏡」
作詞:浅井さやか 作曲・編曲:和田俊輔
Stage Arrangement:YOSHIZUMI 振付:桜木涼介
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