「実写版映画 刀剣乱舞 継承/黎明」と「刀剣乱舞ONLINE」<大侵寇><百鬼夜行>イベントの類似性について考察もどきのような何か


自分用のメモ的な側面が強いが、一応、考察もどき感想。
原案ゲームから設定を共有していると思われる共通のストーリー及び世界観の設定、もしくは今後の原案ゲームで明かされる可能性のある伏線的な要素がちらほら見られたので、そのことについて。
「刀剣乱舞 黎明」「刀剣乱舞 継承」、原案ゲームの「対大侵寇防人作戦」「対百鬼夜行気激作戦」イベントのネタバレあり。ほか、刀ミュ「つはものどもがゆめのあと」「東京心覚」「陸奥一蓮」、刀ステ「悲伝 結の目の不如帰」「禺伝 矛盾源氏物語」、ゲーム「刀剣乱舞無双」の内容にもほんの少しだけふれています。
最後の「その他」の項目にて、ほんの少しだけネガ感想あり。

実写映画版は原案ゲームのレイドイベントを先取りしていた説

数日前(2024年11月16日)、ふと思いついて「刀剣乱舞 黎明」を観返していて、閃いたことがあった。
これまで公開された二つの<実写映画版 刀剣乱舞>「刀剣乱舞 継承」「刀剣乱舞 黎明」は、これまで開催された「刀剣乱舞ONLINE」の二つレイドイベント(不可逆の進行を見せる重要なストーリーイベント)をそれぞれ先取りしたものだったのではないか、と。

「刀剣乱舞 継承」と「対大侵寇防人作戦」

まず、「刀剣乱舞 継承」(2019年1月18日公開)だが、これは原案ゲームの初レイドバトルイベント「対大侵寇防人作戦」(2022年3月開催)と同じしシナリオをベースにしていたように思う。
「継承」と大侵寇イベントとのシナリオ上の共通要素は、おおまかに言って以下の三点にまとめることができる。

①本丸が襲撃される。
②秘密を抱える三日月宗近が本丸を不在にする単独行動に出る。
③三日月宗近が仲間を頼れるようになることで、本丸の危機が解決される。

上のような要素は、刀ミュの「つはものどもがゆめのあと」「東京心覚」「陸奥一蓮」や刀ステの「悲伝」あたりの展開とも部分的に通じるものがある。また、「継承」には見られないが、原案ゲームと刀ステでは三日月宗近が繰り返しタイムループしていたことが示唆され、刀ミュではタイムループかどうかは確定できないが、やはり単独で時間遡行を繰り返しているとされている。
あまりにも似すぎていると思う。このような類似性は偶然とは考えにくい。
おそらく原案の中に雛形となるようなシナリオがある、と私は思う。というかほぼ確信している。その原型シナリオをニトロサイドが各主要メディアミクス制作者に明かしてそれぞれの物語としての出力を依頼し、「刀剣乱舞」というコンテンツに一定の方向性を与えようとしているように思える。

「刀剣乱舞 黎明」と「対百鬼夜行迎撃作戦」

ところで「刀剣乱舞 黎明」(2024年3月31日公開)を再鑑賞した私は、これもまた原案ゲームのレイドイベントと共通要素をいくつか有していることに気が付いてしまった。2022年公開当時には当然知るべくもなかったけれど、これ、原案ゲームのレイドバトルイベント「対百鬼夜行迎撃作戦」(2024年8月開催)と同じシナリオがベースになってるんじゃね……?と……。私が看取したところでは、両者の共通要素は主に次の三点にまとめることができる。

①平安京が登場する。「対百鬼夜行迎撃作戦」では疑似フィールドとして平安京が展開され、「刀剣乱舞 黎明」では酒呑童子を討伐する企みを話し合う藤原道長、安倍晴明の場面にて995年の平安京が舞台となっている。
②「鬼」なる存在が異界から侵略を試みようとするストーリーになっている。「対百鬼夜行迎撃作戦」では空に開いた穴から「鬼」と名付けられた存在の目が覗き、こちら側に侵入を試みていた。「刀剣乱舞 黎明」では空に目のようなものが浮かぶ描写があり、三日月宗近が「鬼を使い、あちらの理をこの時代に持ち込むとはな」と語る。
③三日月宗近の存在が揺らぎ、他者に名前を呼ばれて一時的な安定を得る。原案ゲームでは火車切が謎の存在を三日月宗近と名指すことで、彼の存在は「朧月」としての正体を仮初に現わしてみせる。「刀剣乱舞 黎明」では2012年に時間遡行した三日月宗近の存在が不安定となるが、物の声を聴くことができる女子高生・琴音が名前を呼ぶことで一時的な安定を得る。

もはやディテールまで似通い過ぎでは……。やはり偶然の一致とは考えにくry
これも「継承」と同様に、原案ゲームの「百鬼夜行」イベントに相当する物語の実写版が「刀剣乱舞 黎明」であったとは言えはしないだろうか。
「継承」も「黎明」も原案ゲームのレイドイベントの実装よりも、先行して公開された。
二つの「実写映画版 刀剣乱舞」は原案ゲームのレイドイベントを先取りする内容であったと思えてならない。
この法則性でいえば、次回のレイドイベントも、実写版が先行して内容をチラ見せしてくれるということになりそうだが……。

三日月宗近の物語という視点

  • 筆者は「刀剣乱舞」というコンテンツの中心人物もしくは主人公は三日月宗近であると考えている。その理由はメタ的なものも含めて色々あるが、とにかくそう考える根拠はいくつかある。そのうちの一つが、原案ゲームで不可逆のストーリー進行を見せる二つのレイドイベントの両方に於いて、三日月宗近がキーパーソンとして位置付けられているという事実である。

  • 「対大侵寇防人作戦」の物語にはエンディングにて「第一節 朔」というタイトルが与えられた。「朔」(=新月)とは、同イベントにおける最後の「月 新た」のタイトルの場面に通じる。これまで仲間を信じることができずに単独行動に徹していた三日月宗近が仲間を頼れるようになる。仲間を頼らず独力で危機に臨んできた三日月宗近の傲慢なスタンスが、コペルニクス転回を遂げた物語を月の新生に喩えたというところだろう。折れてもいいと、そう思わせてくれたのだな。なぜなら俺が仮に折れても、信じられる仲間がいるのだから、ということだろう。うんうん、よきかなよきかな。ここまでが、三日月宗近の物語「第一節」だったのだと筆者は捉えている。

  • で、筆者はさらに、「対百鬼夜行迎撃作戦」から「第二節」の助走が始まっていると考える。そして「第二節」の物語は、原案ゲームや各種メディアミクス作品の至るところで、繰り返し仄めかされ続けている三日月宗近の存在(記憶・来歴・物語等)の脆弱性※、これを解決するものになるはずだと。例えば、「刀剣乱舞 黎明」にて琴音に名前を呼ばれることで存在を安定化する描写、原案ゲームの三日月宗近関連の記憶や物語をめぐる回想や手合わせ台詞、「対百鬼夜行迎撃作戦」イベントにおける朧月の挙動や狐ヶ崎による本丸の三日月宗近への言及、「刀剣乱舞 活撃」のキャラクターソング「現」の歌詞、刀ステで黒い山姥切国広が三日月宗近のために物語を集めようと奔走する描写、刀ミュ「陸奥一蓮」で仄めかされる三日月宗近の記憶の摩耗もしくは欠落状態や三日月のソロ「君の名を」の歌詞における示唆等、三日月宗近が何らかの記憶もしくは物語に曖昧さを抱えており、それが彼の脆弱性につながっていると仄めかされる描写は主要メディアミクス群にほぼ共通して描かれている。このような共通性もまた、偶然とは言いがたい。何らかの設定や世界観が公式に存在していて、それに基づいていると捉えるべきだろう。

  • 三日月宗近の付喪神としての存在の脆弱性について、原案ゲーム、各種メディアミクスの描写でそれぞれどのような解決がもたらされるのか、それぞれによって多少の差異はあるだろうが、原案ゲームにおいても「刀剣乱舞 黎明」においても刀ミュにおいても、三日月宗近は「友」の存在に言及して、重きを置いていることがその糸口になるかもしれない。王道としては、「対大侵寇防人作戦」イベント(もしくは各メディアミクス作品でそれに相当するストーリー)を経て、本当の仲間となった本丸の「友」らが、三日月宗近の存在を確かなものとして証しするという展開が考えられそうである。知らんけど。

そのほか気付いた点メモ

  • 「刀剣乱舞 黎明」のラストで、山姥切長義が時の政府の対応として一連の事件の記憶や痕跡を抹消すると説明する場面で、仮の主を務めてくれた各務に「覚えておいてはやれないが……」と労うセリフがある。これは全ての「刀剣乱舞」コンテンツにおいて、時の政府によって刀剣男士の記憶が操作され得るということが明言された初めてのシーンではないかと思うが、どうか。筆者はけっこうショックだった。刀剣男士の記憶が史実をそのまま反映しているものでないらしいことは、色んな刀の極に向かう修行手紙を見ればわかるが、刀剣男士自身が時の政府に己の記憶を操作されることを当たり前に受け容れていることがちょっとした衝撃だったのだ。なお似たようなシチュエーションとしては、政府が刀剣男士らに、別の刀剣男士の物語を試験的に合成付与して運用を図っていることを示す描写が刀ステ「禺伝 矛盾源氏物語」で登場する。まぁそもそも巴形薙刀や静形薙刀についても、時の政府が戦力不足に対する苦肉の策として人造的に顕現させられたことが示唆されている。「刀剣乱舞無双」のオリジナルキャラクターの面影の顕現運用も、似たような背景があったね。時の政府くん、やっぱり、とっても胡散臭い。

  • 「刀剣乱舞 黎明」の劇中で、舞台となる2012年という時代においては、刀剣男士、時間遡行軍の双方の時間遡行者にとって、行動が厳しく制約される旨が繰り返し説明される。へし切長谷部によれば、特に戦闘行為などもってのほかとのこと。山姥切長義はこの制約を指して、桁違いの記録量のせいで「歴史改変の余地は少ない」と説明している。2012年という時代は義務教育によって日本に暮らす人々の識字率が極めて高い時代であり、本などの著作物、メモ、レポート、書類などの文書類のほか、科学技術の発展による写真、動画、音声記録、電子データ、インターネット等、起きた事実を後から再構成する手がかりとなる記録類が大量に残されている時代であるから、ということのようである(2205年の遥か先の未来まで記録類ーー特に電磁的なものが果たして残存できるのかという点については疑問があるにしろ)。刀剣男士も時間遡行軍も、後世から観測して確かめられる「事実」と「事実」の隙間においてしか、歴史を守る/修正するアクションを起こし得ないらしい。この設定に関する説明は複数回にわたって行われているが、これは現段階で公開されている原案ゲームの展開や各メディアミクス作品(「黎明」除く)において、なぜ現代が刀剣男士達の時間遡行先にならないのか、その不思議を説明してくれる設定でもある。何度も言及されていることから、鑑賞者に印象付けたいというライターの意図がうかがえるような気がする。したがって今後、原案ゲームで何らかのギミックとして再登場することも予想される。

  • 「刀剣乱舞黎明」にて酒呑童子を操っていた時間遡行軍?による気になる台詞がある。「千年など、物となれば超えることは容易い」「すべてが物となった時、その物語を我らに差し出せば……」というものである。 これらは原案ゲームや各メディアミクスで作品において三日月宗近の物語と名前を呼ぶ行為が結び付けられて表象される状況や、原案ゲームにおける「対百鬼夜行迎撃作戦」における朧月の目的(「俺」を「安定」させる?)や、イベント導入場面「銘の衡」における一人称不明の「戦うモノよ お前たちに名を与えよう」の語り、「対大侵寇防人作戦」時の三日月の「お前たちに物語を与えてやろう」等の挙動にも何となく通じるものがある気がする。「すべてが物となった時」の意味するところが映画を最後まで観ても明かされないので、これから原案ゲームの方で明かされるのかもしれない。「対大侵寇防人作戦」で登場した「我楽多」(がらくた)概念しかり、異去の「戦鬼」しかり、 原案ゲームではこれから「物」の無念や怨念に焦点されそうな気配があり、そうした動向と関係があるのかもしれない。そして、三日月宗近が言うところの「物が語る故物語」という違和感のあるフレーズについて、いよいよストーリーが展開してその意味が明かされていくのかもしれない。このフレーズにおいては、物語する主体が人間ではなく、「物」であるとされている点に、筆者はかねてから引っかかりを覚えていた。「対大侵寇防人作戦」においても三日月宗近が「お前たちに物語を与えてやろう」という台詞を発するが、これもおかしいと思う。筆者は何かを物語る、何かに物語を与えるというのは、人間の特権であると認識している。なぜ、一介の「物」に過ぎない三日月宗近が、別の「物」に「物語」を「与え」ることをしようというのか。三日月宗近は人間の歴史を守るという使命のほかに、「物」に込められた「思い」を救うという目的も抱いているのではないか。「刀剣乱舞 黎明」においても「物」に込められた「思い」について繰り返し琴音に説いていたのは三日月宗近であった。この点にも何らかのギミックが仕込まれていると考えて良いと思う。

  • なお、筆者がこの記事を書いた数日後、刀ステ「虚伝」再演を鑑賞した(初演は既履修済だった)ところ、三日月宗近が「物とは人の思いを運ぶよすが」と語る場面があることに気が付いた。やはり三日月宗近には「物」に込められた「思い」を大切にしたいという行動原理があるのではないかと思われる。三日月宗近は原案ゲームでは審神者就任周年ボイスで繰り返し、歴史を守る使命を審神者に説いてくる、刀剣男士としての役割に厳しい責任感をもつ性質である。一方で「給料分は仕事をするか」の初のボスマス到達台詞や、対大侵寇防人作戦で政府の監視から逃れて単独行動していた言動を見るに、「正しい歴史を守る」政府とは別の目的をもって動いているような節もある。先にも述べたが、歴史を守ることとは別の目的があるか、もしくは歴史を守ることが三日月宗近の腹の内の目的を達成することにつながるのではないかと筆者は考えている。その秘められた目的が「物」にこめられた「思い」を救う、守るということなのではないかと思う。そしてもしかしたら、「物」に込められた「思い」を救済することが、彼自身の存在の安定化につながるのかもしれない(2025年1月13日追記)。

  • 「刀剣乱舞 黎明」の最終決戦の舞台である渋谷の場面では「人生には 驚きが必要だ」というコピーを表示した宣伝パネルが登場する。言わずもがな、鶴丸国永の口癖である。そのパネルの隣に掲示してあった同型宣伝パネルに書いてあったキャッチコピーは「誰かを思う 幸せ」であった。これらにどんな意味があるのか、何の意味もないのか、単なるスタッフの遊び心なのかはわからないが、一応メモしておく。

  • 「黎明」にて「歴史」とは「河の流れ」のようなものであるとの形容が登場した。これは刀ミュ本丸で反復される「歴史とは大河の流れのようなもの」という説明とほぼ同じものである。原案となる共通の世界観設定を下敷きにしていることがうかがわれる。

  • 「刀剣乱舞 黎明」における三日月と琴音の「友」「仲間」をめぐるやり取りが意味深長だったのでここにメモしておく。

三日月「(略)それが俺たちの使命。そして、消えた仲間を探すためにこの時代に来た」
琴音「使命、仲間……」
三日月「お前たちはつながっているのだな」
琴音「え?そうかな。(略)」
三日月「良き友なのだな」
琴音「三日月も早く見つかるといいね」
   (三日月の驚いたような顔)
琴音「仲間を探しているんでしょ」
三日月「そうだな。早く見つけねば」(微笑む)

出典:「映画刀剣乱舞-黎明-」より一部抜粋
  • ここで三日月の言う「消えた仲間」とは山姥切国広のことである。しかし筆者は、三日月宗近にとっての「友」と「仲間」が同じ概念を意味するかは定かではないと思う。もしも三日月宗近にとって両者が同じ概念であれば、琴音との会話は額面通りに受け取っていいことになる。しかし筆者には、琴音に「三日月も(友が)早く見つかるといいね」と言われた時の三日月の驚いた表情に、何か含みを持たせて演出しているようにも思われたのである。であれば、ここで琴音と三日月の間で交わされた会話は、三日月にとっては別の意味をともなって聴こえたかもしれない。すなわち、三日月にとって必ずしも「友」と「仲間」が同じ概念ではないとすれば、彼もまた朧月や刀ミュの三日月宗近と同じように、未だ「友」を見つけられていないという課題のある現状を仄めかす描写になりはしないだろうか。ダブルミーニングになっているのでは。まぁ、これはさすがに考えすぎかもしれない。

  • 二年半前、「刀剣乱舞 黎明」を最初に映画館に観に行った時、ストーリーについて、色々な疑問が浮かんだ。平安京を出した必然性は何なのかとか、なぜ鬼の物語にする必要があったのか、などがそれである。あの当時はこのシナリオに必然性や説得力を感じられず、首をかしげるばかりだったが、しかし「対百鬼夜行迎撃作戦」イベント(2024年8月)の後に今回、映画を観たことで、それらの疑問には暫定の解が与えられた。逆だったのだと思う。原案ゲームに原型となるシナリオが先に存在していたのだと仮定すれば、合点がいく。そのシナリオを出力することこそが実写映画「刀剣乱舞 黎明」に与えられた最優先命題だったのだとしたら。なぜ鬼を出したのかとか、なぜ平安京を出したのかといった、物語上の説得力を担保する努力の優先順位は相対的に低くもなるのではないか、ということだ。いや、ちゃんと説得力をともなったシナリオにしてほしくはあったんだけれども……(そしてそのための工夫なら、私ですらいくつか思い付くのだが……)。でもまぁ、個人的には、疑問が氷解してスッキリしたのは、今回「刀剣乱舞 黎明」を再鑑賞して良かったことの一つではある。

まとめ

やはり各メディアミクス作品は定期的に見直した方がいいと感じた。
記憶はどんどん曖昧になるし、自分の都合のいいように変化させて覚えてしまうことも多々あるからだ。
また、原案ゲームや各メディアミクス作品の進行を経てから観直すと、情報量が増えた分、過去の表現を新しい視点で眺め直すこともできる。
今回「刀剣乱舞 黎明」が「対百鬼夜行迎撃作戦」と共通要素があると気付けたように。
以上、考察もどきの感想でした。

いいなと思ったら応援しよう!